失うくらいなら手に入れない「0」で妥協しようとする感情の失敗談

失うくらいなら手に入れなければプラスマイナス零でいられるのではないかと思った頃が在ったような無かったような…

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 失うくらいなら、いらない「0」で妥協しようとする失敗

そのような思春期があったように思う。

当時は「穴の空いたペットボトル」の如く何かしら詰めていかないと失い続けるという理屈に落ち着いた。

手に入れなければ損はしない、傷つかないというのは安易な発想だと痛感した故の事である。

何も手に入れれない(あるいは何も手に入れようとしない)という事は劣等感や無力感に苛まられる環境を自らに敷いているようなものだ。

言い換えれば、穴の空いたペットボトルに更に穴を空けるような酸を流し込んでいるようなもの…

それのどこを自分を護る行為だと思い込んだのか、今となっては些か以上の疑問である。

失うくらいならば手に入れないからと言って「0」にはなり得ない

例えば、宴会などで周りと賑わい騒いだ後に1人になった時に寂しさを感じたり

孤独感を感じていた時に何気ない「おはよう、○○さん」という挨拶を嬉しく感じたり

人は、その時々の精神状態の間隔(差)によって気分に起伏を伴うものだ。

例えば、突如として猛烈な腹痛が訪れた際に肉体だけでなく精神的にも辛さを感じる事だろう。

それが解消された際に「普通になった」とはあまり言わないだろう。

概ね「良くなった」と表現する事が多いだろうし、安心感も得ているだろう。

危機に陥れば危機が去った事に嬉しく思い、それとは反対に順風満帆であっても危機が到来した時には辛いと感じるものである。

言って見れば、毎回100点とって当たり前のように思われている成績優秀者が80点を叩き出したとしたら当事者の心中から平穏が逃亡するかもしれないのだ。

感情に「0」があり得るとしたら?

感情を司る器官に損傷がない限り感情を全く無すというのは不可能のように思えます。

ただ、知識や経験においては全く知識や経験を有さない分野においては”無”と同義と言えるのかもしれません。

少なくとも感情においては知らないでいる事で、そんな事があり得るのである。

存在そのものの知識を全く知らなければ、それに対する感情が伴いようがない。

例えば、妖精というものを見た事はないが話に聞いた事がある人には妖精を想像したり感情を伴う事ができるが、

妖精というものを見た事がなければ、聞いた事もなく、想像した事もない人にとっては、その事柄も意味も知らないままの無知である。

まとめ

先程の事をテーマに当てはめると、失うくらいなら手に入れなければいい損しないなんて理屈は、無知ではない証拠である。

既に失う対象を認識している(あるいは認識してしまっている)。

意識した以上は無に帰す事はなく、対象への念が残り続ける。

そう思うと

手に入らないまま感情を揺さぶられるか

手に入れようとして成功や失敗から感情を揺さぶられるか

の違いだろうか。

歳を重ねていくうちに後者の方が成功の仕方や失敗からの立ち直り方を学べる分、得るものも多いように感じるようになってきたように思います。

それ故に成功もせず失敗もしない代わりに劣等感や無力感に浸る事は常に失敗しているようなものだと感じなくもありません。

それが短期間ならば大打撃にはならなくとも長い間それに浸るとなると「塵も積もれば山」の如く、傷も重ねれば深手となる。

当初は妥協点として0を望んだはずが、大きく0未満(マイナス/負)に浸っていると感じるのだから浅はかな判断であったと言う他ないですね。

このように当時の失敗を後になって振り返ってみると、取り繕うためのエネルギーを消耗し続けていたように感じます。

以上、『後の祭りとしてテンテコと踊ってみたらシンミリしましたよ』っというお話でした。