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「好かれなくてもいいかしら」という選択

≪こんな感性あっていい≫

好かれなくてもいいかしら

好かれようとし過ぎると疲れ果てやすい八方美人の結果、行き当たった思考‥


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好かれようとして行う行動は報われるとは限らない

善意でしたつもりのことがかえって余計なお世話として受け取られたりすることは、よくある話だとは思う。

善意と言えど正直にいうと「そうせずにはいられない自身の性格の問題」ともいえる。つまりそうせずにはいられない物事に対し善意も含まれているということ。それも時と場合によっては善意は含まれず自分をよく見せようとしているケースも無きにしも非ず。それらが悪いわけではないと個人的には思う。ただココではそれによって引き起こされたトラブルなどによって自身のストレスを増やしているのだとしたら減らせないかなということが論点だ^^
視点を変えていうと「好かれようとして行う行動は報われるとは限らない」ように「嫌われようとして行う行動もまた報われるとは限らない」。

それはその評価を下すのが自分ではない他人であるからだ!

他人の感情や思考は自分には決められない。そして反応も個々違う。
ある人には気に入ってもらえた行動も、ある人には迷惑な行動と認識されることもあるだろう。

好かれようとする行動は敬遠される?

好かれようとして取る行動は、相手から見た場合に媚びているというイメージを持たれてしまう事もよくある話。好かれよう、好かれようとして取る行動は、言ってみれば結果好かれる自分の事ばかり考えている。言い換えれば嫌われないことに必死で余裕がないと思われやすいとも捉えることができるのではなかろうか。

ポジティブな言葉で言うなら必要な行動は好かれようとする行動ではなくで好かれる行動なのだろう^^

好かれる行動

そんなの私が聞きたいよう^^;と助成を求めたいところではあるのだけれど。

好かれようと自身を大きく見せすぎないことだろうか。やはり短期的に観れば虚勢も効果はあるのかもしれないが長期的に観るとやはり無理がありボロが出ることは多い。

例えて言うなら先行逃げ切りできるくらいに実力のあるランナーなら初めから飛ばしても成果を出すかもしれないが私のようにペース配分がわからず1500mなどで飛ばしてはばてて歩いてしまうようでは生み出す成果は後悔と必要以上の疲労くらいだ。(ポジティブに捉えるなら失敗の一例という経験を得るのだけどもココでは論点が違うので小さめに…)

そして好き嫌いにおいてはゴールがないので余計に無謀だ。それは好かれていても嫌われることもあれば、嫌われいたのに好かれることだってあって終わりがない。

終わりという終わりが明確に無いものに対し初めがピークで右肩下がりでは、人間関係良好とは言えない。また上がることもあるだけに一概には言い切れないのだけど、そもそも無理した状態がいつまでも続かない。

そして何より自身にとっても無理が祟る。それは自業自得とも言えるのかもしれないが、無理して得たものを無理できなくなって墜落させてしまっては本末転倒だ。そして無理をしてまで頑張ったからと言って評価を受けるわけじゃない、もしも健康を害してしまったらその人は救ってくれるのか?それは過剰な期待というものでしょう…と私は思う故に対人関係においては、無理しすぎて余裕がなくなって空回りしてしまう事は、結果として無理しない時よりトラブルが増えていたりする。

ということから、たとえ嫌われたとしてもそれでゴールではないことを良いように取ろうと思うようになってきた。(嫌われても数年経てば余程の事でもない限り滅多に思い出されることもないのでは?)

念を押すけれど嫌われる行動をしろと言っているわけではない。むしろしない方が断然じぶんのためにも周りためにもなるだろう。

あくまで出来もしない、継続もできそうにないことを無理してまで目先の好かれることに固執しない方がストレス減らせる。というのが挫折からの教訓であり私の個人的な自論である。

やはり、好かれる努力は素晴らしいが、好かれるための背伸びはよろしくはない。