一体どんなと時に怒りやすいだろうかという事に着目してみると…。
怒りや不満を感じる時を振り返ってみると概ね何かしらを「我慢」しているときが多いように思う。
例えて言うならば、
・調子が良くない時に話しかけられる
・自分が出来ない事・抑えている事・守っている事を実行している人を接した時
等々
我慢とは別に
・過度な期待の反動
・否定されていると感じる場合
なども怒り・不満を感じたりもするので「我慢」は要因の1つに過ぎないのだろうなという事を前もって述べておこうと思う。
1つに決めつけてしまう事は、あまりよろしくないようにも思うだけに。
卑怯な物言いではあるが、臨機応変かつ答えもなく一貫性を持ち合わせてはいない。
あるのは、ただの1説である。
その「我慢」について図星を突くと
貫かれたのは強がりと嫉妬のようにも思う。
先の例から取り上げるならば、調子が良くないという状況下で我慢を強いられる物事が起こると言うに言えない環境では特に強がるという選択をしがちだろうか。
そうならなくていいように、そっとしておいてくださいと先手を打つ事ができるケースもあるだろうけれど、言える場合であっても気を使って平気なふりをしてしまったり、弱みを見せたくないと意地が先行したりというのは有る話だ。(トイレに行きたいのに、言い出せないというのもその一つだろうか)
また自身がセーブしている事をやっている人には呆れる事もあれば、羨ましさ故の妬みもあるものだ。
それに対し、「私はこれだけやっているのに!なぜ周りは~(怒)」というのも期待故の怒りでもあるだろうし、我慢故の怒りでもあるのだろう。
それらのどうしたいんだ?というのが要なのだけれど。
個人的には怒りをコントロールしたいと思わないものの、我慢という蓋をして怒りを増長している部分が減ればいいなとは思う。(という半端さを抱いている)
怒りをコントロールしすぎたいと思わないのは、言い換えると「感情を自身の支配下に置こうとする」事に、いささかの恐怖を感じるが故だ。
もっと単純に言ってしまうと無茶するとそれがかえってストレスだろうな。(我慢という蓋を支配による蓋になってしまっては本末転倒である)
とある種ストレスの増長にビビっているのである。
感情という物には、のびのびしていて欲しい。ちらほらと怒っていたい。
怒りやすいから、怒らないでいようというような0か100、白か黒かのように極端になってしまうと、それがかえって重荷になってしまっているのでは?と両極端器質に苦しんだ挙句に感じた事である。
物事は2択ではない。第三の道も第四の道もあるのだろう。それが分からないのは、分からない段階にいるからなのだろうし、視野が狭いのだろうと自身の痛いところを突くある種の自虐のようで保身でもあるのだろう。
と余談が過ぎてしまったけれど、「我慢する必要がない時にまで我慢している回数を減らしていこう」というのが改善策、緩和策である。
我慢という「委縮」している事に対して、有効そうな「ほぐす」という選択。(蓋を開けて解放するイメージの方が良くよぎりますが)
さほど委縮しなくていい事に、委縮し過ぎているんだな、し過ぎていたんだな(小心者である)
その委縮にも似た視野の狭さに対しても
極端に2択こだわる必要はないのだろうし、視野も理屈も常識さえも思ってる以上に広〜いものだとはおもう。
勝手に狭めてるだけなのかもしれない。
臨機応変、答えもない
そういう曖昧なもの(自身の感情も他人の心情も曖昧なもの)
曖昧なものに対して、あまりにも肩に力入って
緊張してしまっているのだろう。(張り詰めているのだろう)
水に硬い石を投げ入れても沈むだけ。
曖昧なものに頑なな意思?意地?を投げ掛けても気持ちが荒む。
案外、「肩の力抜いていいんだよ」みたいな感じの一言が欲しいだけかもしれない。