競争社会やデフレ、また日常の些細な争いでも似たようなことがありふれて、溢れているなと感じる事から綴り綴り…
共有地の悲劇?
生物学者であるギャレット・ハーディンの『The Tragedy of the Commons』/1968年の『共有地の悲劇』というものが社会学や経済学の市場原理などを学ぶ際に挙げられたりする事があります。
平たく言えば資源を共有する際に規則がないと「我こそが得をしよう」「他に取られる前に取らなければ」という環境が生まれやすく、皆が制限なく共有資源を使っていると資源が枯渇は早まる。
という事を共有地における放牧環境で論じた事で有名だろうか。
資源は生産される以上に使えば枯渇するというのは至極当たり前の事である。
(スーパーにおけるお1人様1品限りの品も制限がなければ同一の人間が買い占めてしまうと店の宣伝効果も薄れ損失になりかねないものである事を思うと似たようなものだろうか)
もっと分かりやすそうな例を挙げると乱獲による絶滅危惧種や漁場問題がそうだろうか。
しかしながら、それを想像し得たとしても利益を求めて(または生きていくため)人(あるいは生物)は規則なくしては争うものであるというところが問題!?
ただ社会のバランスにおいて問題であるのであって生物としては自然現象という方が近しいのかもしれない事を思うと一概に問題なのか測り兼ねる事なのかもしませんね。
共有地の悲劇で着目したいところ
枯渇しきれば共倒れであるが、
枯渇しきらなかったらならば残ったものが勢力を持ちやすくなるという事である。
例えば「とある使い古した雑巾」があるとして、
雑巾ごと抹消してしまえば菌は住処ごと消滅するが、
熱湯消毒の場合には、熱で死滅しない菌はライバルでもある他の菌が居なくなったために繁殖しやすくなる場合がある。
といったようなものと似ているだろうか。
それらを対策するための一定基準の規則が敷かれたり、独占権を与えたりしながらバランスを取っている事も多い。
逆にそれらの規則が緩和される事もあります。
例えば金融自由化政策、銀行・証券・保険等の代理業解禁などによる金融規則の規制緩和や撤廃が起こり合併に合併を重ねることとなりました。
その金融ビックバンにもグローバル化やサービスの透明化などの目標が挙げられていたりもするため一概に良し悪しを測れたものではない。
[他に挙げると1973年の「老人医療費無料化」も通院や入院の必要の無い人まで利用するようになり危惧された通り医療費増大などの問題を抱えていくこととなった。結果(あるいは経過)的には10年後から一部負担が導入されていく事となる。]
ただ例を挙げてこの場で言いたい事は政策や規制の良し悪しではなく、単に規則が無くなるとバランスを保ってたものが崩れやすいという事のみである。
そういう風な『共有地の悲劇』に似たような事を意識すると芥川龍之介の『蜘蛛の糸』が思い浮かぶ。
あれもまた似たようなものに含まれそうである。
ただ、こう語っていると利益や自身が助かろうとする事が悪いイメージが付きそうであるが結果論(経過論)でもある。
例えばバランスよく共有しても破綻が目先に見えるほどに資源が少ない事もあり得るものだ。
奪い合っても共倒れ、共有しても共倒れ、譲り合っても共倒れ、そんな事もあるのだろう事を思うと生き残れる手段があるだけ恵まれているようにも感じなくもない。
そう思うものの、必要以上に奪い合わなければ共存できそうな事でも争っているのを見ると白けた目になったりするのは何故だろう。
それが「共有知の悲劇」だろうか?
知識や価値基準を理屈(理性)と感情(本能)に共有せざる得ない人間ならではの葛藤。
その葛藤が悲劇なのか喜劇なのかはその都度異なるだろうけれど…
これが綴り終えでは何ともグダグダであるが、それによって乱獲しているものはエネルギーだろうか?はたまた喜怒哀楽だろうか?あるいは選択肢だろうか?
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