気が弱い性格
性格というものは、なかなか変わるものではないとされている。
とは言え、ベース(基礎)は変わらなくとも退化もすれば強化もできるものだ。
言わば、筋肉が負荷をかければ肥大し、使わなければ弱るように「気」というのもまた似たようなものかもしれない。
例えば知らない道を歩くのと、知っている道では安心感が異なるというのも同様。
知らなかった道も、2度目は知っている風景に安心感を覚えたりもするものだ。
その道を少しは知っているという自信がついていると言い換えてもいいのだろう。
それと相対し、慣れ親しんだ道に見覚えのない建物や在ったはずの建物や道が無くなっていたら戸惑ったり驚いたりするものだ。
こういったように気持ちは強化もできるし、揺さぶられもするし、退化もするものである。
何故、気が弱いのだろうか?
当たり前らしき事だけを言わば遺伝子や、育った環境の要素が強かろう。
先祖に気が弱い人が多いと似ているなと感じる人もそれなりにはいるだろう。
それが遺伝子からなのか似た環境で育てられたからなのかは断定できないが、自身の事を引き合いに出すならば蛙の子は蛙という諺が相応しいとさえ感じる。
(むしろ、蛙より弱々しい気もしなくはないのでオタマジャクシかもしれない)
気の弱さを少しでもマシにするためにできる事
①気が弱い自分を自覚しても、気の弱い自分に甘んじない事
自身の短所を自覚する事は素晴らしい事である。
ただ、それに甘んじてしまう事は残念な事である。
例え気が弱いからといって、気が弱くあり続けなければならないと言う事は全く以て無い。
何かを切っ掛けとして鍛えれるならば、それに越した事はない。
②恥をかく事
聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥のように、一時の恥を重ねる事で免疫力というものは高まりやすいものである。
そうは言っても初めて行う事は特に勇気や勢いといものが伴うため当事者にとっては容易いものではない。
ただ、
・一生の恥を背負ってストレスを溜めるか
・一時の恥を晒してストレスを和らげるか
と思うとマイナスとプラスの間にはかなり大きな差がるようにも感じたものだ。
また踏み出した人は、「もっと早く踏み出せばよかった」と言う人も多い。
コンプレックスを隠しきり渡り続けれるのならそれも悪くはないのかもしれない。
しかしながら、背負う労力と取り繕う労力を費やしても自信が付いてくれるわけじゃないというもの事実である。
自信は、自信を養う行為によってのみ強化される。
例えばスポーツ上手くなりたいと思いながらも、部屋にこもりながらイメージトレーニングだけをしていても上達しないという事だ。
むしろ筋力低下によりイメージ通りに体と動かす事も難しくなっていく。つまり、イメトレに見合う体あってのイメトレ効果が見込めるという事だ。
また自信を養う行為による強化というものを気の弱さや人見知り等に当てはめると「人前に自身を晒す事で、徐々に慣れる」というのが、その行為の一つである。(一体験談であるが人見知りも、人前に出る事で他人はあまり他人を見ず他人自身の都合や立場を見ている事を体感する事で緊張も少しは和らいでいく事もある。)
とは言うものの、気が強くない一員としてはまだまだ不慣れなので偉そうな事ばかり言えない(絶句)
やはり気の強い人と比べれば月とツッポン、天の上と地の底である。
③他者と比べない
いやいやいやいや、一行前に比べてんじゃねーか!って引っ叩かれそうなものだが、比べようとしなくても、反射的に比べちゃうもんだ。(そんなにきっかりかっちりしなくていいものである、比べないぞ!と気負う事は比べているのと大差ないくらいの神経をすり減らしていそうである。必要以上に意識しない事が何よりである)
ただ他人と比べて悲観しない!悪く取らない!という事は重要である。
そもそも生まれ持って弱い人が、生まれ持って強い人の土俵に上がると劣等感を覚えやすくなるのは自然の必然の当然である。(もしも強者や誰かと背比べをしたいのであれば、自信が養われ試したくなった時にすればいいのだろう)
それまでは他者の視線を振り払い、自身の言行を肯定していく事が最優先である。(それすら己には強敵である)
そうやって弱いなりには、良くやれている。(そう思える肯定力が為になる)
せっかく根を張り、育てようとしてるものを引っこ抜いてしまっては本末転倒である故に
当面の間は、蒔いた種子をへし折らないよう死守する事に一点に重きを置いて良いような気もする。
少なくとも木を「気」を育てる事が目的であり、重要点は自分より上であろう者に噛みつく事でも張り合う事でもない。(戒めたいだけの事言えば、その段階ではないということなのだろう)
その育みにおいて特に意識したいところが1点。
それは気負いすぎなくてもいいという事である。(義務ではなく、「したい」からする事である。そのしたい事をするには肯定力が低ければすぐにブレてしまう、言い換えればしたい事を納得してすることは肯定力が養われやすいという事でもある)
例を挙げれば、筋トレやダイエットなどでもそうだが、昨日はできたのに今日は目標に届かないといったような事があるものだ。
その時に全てを投げ出してしまわない事だ。
たとえ一時的に投げ出しブランクができても、またやり始めれば鍛えられていく。
気負う事でさらに緊張感を圧迫し、気を使いすぎるのだ。
気の弱い人にとって無駄な気を使わない省エネさは必要なものだろう。
とはいえ気の弱い人ほど取り繕うようにエネルギーを使ってしまうというのは頷ける事だ。(猫が毛を逆立てるごとく)
しかし、そのエネルギーを「図太さ」に使いたい。
具体的な方法を幾つか挙げると
・大きな声を出してみる!
・複数人の食事で最期の1個をあえて食べる!
・人混みで駆け出す!
・店内で解らない事は探すより店員に話しかける!
・トイレに行きたい時に我慢しない!
などなど。
これらは気の弱い人にとって体裁を気にし過ぎて出来なかったりもする例であるが、これらの事をやってのけても他人にさほど迷惑はかからない。
多少不快に思われたとしてもちょっと厚かましいな!くらいである。
その「厚かましい」と思われる事は嬉しくはないが、悪くはない。
それは気の弱さによって自分を自由に動かせない事よりも自由に自身を動かせているという事である。
綺麗事を言えば、何事も限度があるのでその場の雰囲気合わし厚かましさもコントロールできればいいのだが…そこまでは望むまい。
気弱さが今より少しなり気強になればいいのだ。
比較するならばそこだろう。
他人と比べるよりも以前の自分と、今の自分を比べよう。
少しでもマシになれていると感じるならば、順調である。
前よりも人に話しかける事に抵抗が無くなっているかどうか等、身をもって成果を感じることが出来るのだ。
他人のやり方で成果を感じないならば、自分なりに無茶し過ぎない範囲に気弱を刺激する行動を試していければいいものだ。
他人は見本にはなるし、自身の鏡ともなり得るが、自身に合った自身のやり方は手探りで見つかっていくものかもしれないが、
少しでも良い変化を感じれたなら当事者にとっては何よりの成果であり、良い経過であり、良き動機になり得るものだ。