七つの大罪の1つであるというところの嫉妬。それは人である以上、縁深いものと言っても良いのかもしれません。
そんな嫉妬の捉え方の1つを述べていこうと思います。
嫉妬という自己不満足感
「嫉妬」を別の言葉で言い換えると「自己不満足感」というのがしっくりとくる。
自己都合に対する不満足感と言うと更にしっくりとくる。
・自身には無いもの・できない事を有する・できる他者への不満(例:運動が苦手な人が得意な人を妬む等)
・自身は我慢している事を我慢してない人への不満(例:自身は思った事を抑えて口にできないのに、ズバズバと思った事を言える人への不快さや羨ましさ)
つまり、自身より優れている部分を持っているように感じる人や自身がブレーキをかけてしまうところでアクセルを踏める人等に対して感じる概ね妬みである。
嫉妬の悪循環の入り口
その入り口は、嫉妬してないと自身の感情を強がって抑圧してしまう事。
単純に言うと嫉妬を否定し認めない事。
これは言い換えれば本心を我慢しているという事だ。
けれども、そういった見栄や背伸びが悪いという事ではない。
むしろ誰しも経験がある事であろうし、反射で行ってしまうものでもある。
ここで問題なのは「本心の我慢」である。
それは言ってみれば火に油を注ぐように嫉妬に我慢を注ぐと火が大きくなるように肥大していくものである。
否、火は蓋をして密封すれば鎮火するが、嫉妬に我慢という蓋をしても圧力鍋の中身ごとく煮えたぎるという点ではより一層恐ろしいと言えるのかもしれない。
例えば、恋人が他の異性と仲良くしている事を快く思わなくても「指摘して嫌われたくない」、「器の小さい人と思われたくない」などという理由から我慢する事は、それなりにある事だ。
そこからわかる事は、「傷つきたくない自分の都合」である。
つまり、相手が自分の思い通りにいかない限り永遠に抱き続ける感情という事である。
それを言い換えると相手の問題ではなく、自身の問題という事にもなる。
相手に言えない自身の問題、相手を切り捨てれない自身の問題、傷つきたくない都合を通したいという願望である。
その誰しもあり得る感情には相変わらず悪いと感じる必要がないと主張するが、
「本末転倒に成り得る悪循環からは是非抜け出したい」と思う人にとっては
良い悪いを決めるのではなく、嫉妬を認める事や具体的に何故嫉妬しているのか、何故都合悪いと感じるのかという事を知覚する事が自身の為になる事である。
例に当てはまれば
「異性と絡む恋人に嫉妬しているな」という認知。
「他の異性に好意を抱かれたり、なびいてしまうのが嫌だな」という都合の悪い理由の認知。
そして我慢しても相手は変わらない、相手の環境も変わらないという現実。
では、相手に言えば解決するのか?
「他の異性とあまり絡まないで」と言ってみる事は、自身が我慢しているストレス自体は言える事で緩和できる事もある。
けれども、それが改善されない事もあれば、隠すようになるかもしれないため解消しきらない事や他の問題が生まれたりもする可能性は否めない。
たとえ本音であっても自身の都合を押し付けるという事は、相手に我慢させることにもなり得るだけに相手にも本音をぶつけてもらえなければお互いに納得いく範囲での折り合いが付きにくいのだ。
結局のところ信頼関係や意思疎通がしっかりできているかというところが重要である。
自己不満足感に陥りやすい人の特徴
嫌われたくはないし、相手には自分の気持ちを察して都合よく動いてほしいというように自身の都合の良さを並べたり、自身のルールで他者を測りやすいが「自己不満足感」に陥りやすくあるのでしょう。
それは、つまり相手が自身の思い通りに動いてくれないと自身で対応しきれない、受け入れる事が出来ない自信の無さと言ってもいいのかもしれません。(少なくとも都合が悪い事をされてヘッチャラと言う人も珍しいので不都合は嫌だなというのが人間らしく、それが悪いものではない事はフォローしておきたい)
例えるならば、どれか1つしか選べない事に対して「両方!全部!」といってるようなものなのだろう。
それをどうにかしたい人にとっては、これが1つの問題と回答なのかもしれないですね。
【問題】リンゴもミカンもイチゴも食べたいけれど、どれか1つしか選べません。あなたはどうしますか?
きっと、この問題に対しての回答が、自身にとっての進める道なのでしょう。
他の2つを犠牲に1つを選んだ人も3つ共に選ばなかった人にとっては2つ、あるいは3つを捨てる「覚悟」が伴うもの。
これを例に当てはめると「傷つく覚悟」や「自身の都合通りに他人は動かないという事実を受け入れる覚悟」などである。
このように理屈によって紐解いていくと原因は自身が都合良い事ばかりを望み、嫌われる覚悟を持ってない故に臆病風に吹かれ他者に吠えているように思えてきたりもする。
この理屈が正しいわけではないが、自身にとって重荷になっている事(この場合は嫉妬を軽くしたいなと思う人)には有効さも感じるものだ。
いわゆるショック療法なのだろうか。
現実にできる事と出来ない事を整理して自身に叩きつけるという行為は、
まるで今までの自分を否定しているようで「実に不快」だ。
事実ほど叩きつけられると不快だったりもするが、ちゃんと不快になろう。
そこで「聞き分け良い子」を演じるほど自己不満感は増え、嫉妬も増長すると思うとおぞましい。
上では恋人を例に挙げてはみたものの、その他の事柄であっても他者に対して自身の都合を投影してしまう事から嫉妬や不満というものを生み出すことは多い。
その場合「自己不満足感を養っている行為をしているんだよ?」と自問してみると、
あぁ、なるほど。嫉妬してストレスを吐き出すのは良いが、叩くことに必死になってしまってはむしろストレスになっているようだ。
不満からの怒りが、怒りからの不満になってしまっては本末転倒なのだ。
それをコントロールできれば苦労はしないけれど、知覚していないといつまでも辛いのでどこかで一線引けるように頭の片隅にでも覚えていたいことである。
解決法というよりは緩和法
嫉妬を無くすというのは無理が過ぎるというものだ。
在るのが自然である。それを自然よりも逸脱するほどに増長させることが不自然な人工である。
意外にも「健全に妬もう^^」という心がけは、素敵なのかもしれない。
不自然なまでに増えすぎたモノをどうにかしたい人にとっては自己満足感を養う事を試みる事が何よりの嫉妬軽減法だ。
もっと細かい事を言えば都合の悪い出来事や矛盾に対しての折り合いと言う意味では「自己納得感」が重要なのだろう。
自身がしている事を本心から納得した上かどうかが案外以上に大切である。
納得する事は困難かつ無理な事も多いが、自身を観なければ始まらない。
また解決するために悩んでも答えは出にくいものだけに始めるために悩んでみよう。
案外、初めから出来上がったものを望まない「不完全主義」や「中途半端」でいれるほうが足取りが軽そうだ。
こういう自問自答には終わりがないが、何かのきっかけになってくれればそれで納得ができるという自己満である。(理由をつくらなければ歩めないというのは不便であるだけに一概にオススメとは言いがたい)