嫌われたくないという事は、傷つかずに過ごそうという無茶なのかもしれない。また、傷つかないでいようとする事は傷つき方や克服法を学ぶ機会を失っていると言い換える事も出来るのかもしれないという事をつらつらと綴っていこう。
承認欲求
人に好かれたい、認められたいという欲求はマズロー(米・心理学者)の欲求段階説にもある社会的欲求や承認の欲求に当たる誰しもが抱え得る欲求である。
ただ全てに好かれようと八方美人に浸る必要は無い。
根っから「良い人」ならばともかくとして、「良い人を演じ続ける」というのはジレンマを起こしやすいものだ。
それを世渡りをするにあたっての使い分けとして折り合いをつけれているのならばいいのだけれども、感情に対して折り合いをつけるというのは簡単だとは言い難い。
理想だけを並べるならば、認められたい欲求を持ちながら批判されても気にしないでいれたらいいのだが、そんな屈強な免疫力があるならば苦労はしない。
現実は理想とは異なり否定されれば傷つき、不快さを抱き、時に無力感や自己嫌悪に苛まれる事も往々にして感じるものだ。
「そんな事で傷つくな」と励まされようが傷つくものは傷つくものだ。
むしろ「傷ついて大丈夫なわけはないが、癒せたなら大丈夫になる」と当たり前な事を言われたいをと個人的には思う。
そもそも何故認められたいのか?
という事に対して
本能だから、良い意味で目立ちたいから、自尊心や自己愛を肯定したいから。
というような有り体な事が思い浮かぶ。
一概には言い切れないが裏を返せば、否定されたくないというような保身でもあるのだろう。
人は自身にとって都合の悪いことは願い下げである。概ねの基準は社会的都合(世間体)、自己都合(主観による基準や価値観)なのだろうなと自身を振り返ってみても感じる事である。
解っていたことだけれども自身の都合の良い悪いで物事を測るというと、本当に聞こえが悪い!と思うのだけれど図星なので弁解のしようもない。(聞こえは悪いだけの至極自然なありふれた事である)
また、物事をあまりに美化するのも快適には程遠いもの
アイドルだってオナラも出ます。そもそも生理現象が出ないと思う事が問題なのだ。
そのイメージと言うものもビジネスや好感度において大切なものであるが、要は自身が自身で演じた仮面や思い込みによって窮屈すぎては葛藤(ジレンマ)が起こりやすくなるというところが問題点だ。
その「美化」においても当事者が納得しているのならば何の支障もない。
その「美化」において当事者がジレンマに苛まれるのが辛いからどうにかしたいと感じた時に初めて問題となる。
そもそも問題と感じなければ問題ないのだ。(理屈だけを言えば”問題”の対義語は”問題無い”が相応しいとさえ感じる)
そして、好かれたい認められたいと思う事に葛藤している人とっては、既に問題や課題になっているという事でもある。
どうすればいいのだろう?解決策や改善策は何だろう?
問題に対して改善と言うのも対義語だろうか?という事は置いておくとして
「認められたいと思う事は悪くない」生理現象であり、在っていいものだ以前に自然に在るものである。
問題は、それが上手く実らない事や好かれるために取り繕う事への葛藤である。
言い換えれば上手くいかない事や嫌われる事を「ダメ」だと認識する事が問題である。
卑怯な言い方をするが、上手くいく事もあれば上手くいかない事が当たり前であるし、好かれる事もあれば嫌われる事もあるのが当たり前である。
そして、成功したい、好かれたいと思うのもまた自然である。
坦々と理屈を並べていくと、上手くいかない確率のあるものに対して矛盾する期待をするのだから都合悪い展開に悩むのも必然である。
そしてそれが普通である。正常である。
ただそれを気に病み過ぎて支障を感じるならば、理屈や体験から緩和させていくのが常套手段なので試みてみようという改善案の1つである。
それを緩和させるにあたって必要な事は1つ。
「今までの思い込みを削り、当たり前の事を受容していく」
人に好かれたいという事を例に挙げると、
人に好かれる事(または嫌われない事)に焦点を当てていた以前の思想を、好かれる事もあるし、嫌われる事もあるという当たり前の事を受け入れていくという事だ。
そして好かれる事が一概に良いものではない事も掘り下げて置きたいところである。
確かに好かれるという事は、自信に繋がり自尊心の成長にも繋がる事だけれど、好かれ過ぎるというのは時に重圧を感じるもの。
そう、重いのだ。
認められるという事は、相応に期待も高まっていく事も多い。
それに見合う実力があるならともかく伸び悩んでしまうと一気に重荷を感じる事となる。
物事の良いところだけしか見ないという事は、都合悪い部分には目を向けていないという事であると同時に都合悪い事への免疫力が下がっていく事でもある。
故に打たれ弱くもなる。
同様に都合悪いところしか見ないという事は都合良い事を拾えずにチャンスを捨てている事にもなり得る。
故に打たれ続けて摩耗する。
それらに良い悪いを決める必要は無く、なるほどなと改善点が見えてくればそれでいいのである。
また、嫌われてもやっていけるという事を整理してみるのも素敵な案である。
嫌われる事で何が、どう、支障なのかという事の整理である。
例えば誰かに嫌われて存在が否定されて凹んでいる時は、とりあえずヘコみましょう。
悲しみやショックを我慢すると感情も便秘を起こす。(出さないではなく出せないなくなっていくこともあるので我慢しすぎないで心も力まないで力を抜きましょう)
一通りヘコめたら自分を褒めましょう。(ヘコむにもかなりのエネルギーを要するものなので是非自信をねぎらってあげてくださいと言いたい)
そして人に否定されても、それは他人の都合によるところが多いのであまり自分だけが悪いと追いつめない事も必要である。
また類は友を呼ぶと言うように、少なくとも自身の境遇や価値観に似た人は世の中にいる事も救いだとも思います。
特に同じような悩みを持つ人が頑張る姿や克服し成功している様を知る事は、そういう世界もあるという一つの肯定でもあり、希望や目標にもなるので落ち込む情報に浸り続けるよりは明るいです。
他人は他人の都合で評価する
基本的には、他人は他人の都合の良し悪しで行動するため他の人の事などあまり意識していないとよく見聞きすることがあるように、まさにその通りと感じる事が多い。
むしろ自分より好かれている人がいたら妬まれ、邪魔される事もあるものだ。
好かれるほど仲間も増えるが、対立者も増えるものである。
例えるなら芸能人好き嫌いランキングがイメージしやすいだろうか。
知名度や人気度が高い人ほど好きランキングと嫌いランキングに両方にランクインしていたりするものである。
すなわち多くの支持を得る一方で多くの反感をかうというリスクは付き物であり、それだけ個々の価値観は十人十色という事の証拠でもある。
価値観の十人十色だけでなく、物事もまた千差万別であるので多様な視点から見渡してみる事で感じ方も変わってくるもの。
その多様性の中から好かれる事の良い面と悪い面、嫌われる事の良い面と悪い面を並べながら自身の中で折り合いをつけていくという作業をすることで固定概念を削って自身のストレスを緩和する概念を育てるというのも一つの改善策であるということだ。
それまで嫌われるのを恐れていたことが、少しくらい嫌われてもやっていけるようになれた時には今まで取り繕って張り詰めてきた気疲れが軽減できたことに「ホッ」とすることのもあるものだ。
勢いだけの事言うが「嫌われたらとことん凹んで、好かれたら超喜んでやるんだ!」というあっけらかんさも清々しかろう。
そして失敗や嫌われる事にもそれなりの納得ができるようになれることは自己評価が出来てきている証でもある。
自身の育ち方に不満ならば自身や他者を通して育てる事が出来るだけ恵まれていると良いように取ってみてもいいではないか。