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心霊とヤラセと疑問と自問自答:幽霊はいるかもしれないし、またいないかもしれない

≪こんな感性あっていい≫

夏になると心霊ものの企画が増える。

中にはツッコミを覚えるものも少なくはない。

心霊はあるのかないのかヤラセなのか。

幽霊はいるのか、いないのか。

そんな事は知らない、在ったところで亡き者ではなく無きものにできるわけでもない。

それをネガティヴに捉えてもストレスくらいにしかならない。

否定でもなく肯定でもなく、それなりの疑問や自問自答についてツラツラと…

疑問どころ霊もとい例

・怖い思いをして頭の神経おかしくなったら大変、人の神経ってそこまでタフじゃないだけに怖いもの見たさのショックで常に幻覚・幻聴を感じるようになったら不便。

・取り上げられるのは何故動物霊や人間霊ばかりなのだろう…昆虫や細菌はもっと大量にいそうなのに。

・宇宙が出来て百数十億年、地球が誕生して46億年と言われていることを思うと亡くなった生命体が全て見えるとしたら地上は幽霊で埋まっているのではなかろうか。

(霊界のようなものなどがあるならばそうはならないだろうか)

・なぜ世代が違う死者や種族が違う生き物に言葉が通じるんだろう…何故取り憑かれた人は現代語を使いこなせるのだろう

(生者ですら語学を習得するのに5年前後は費やすのに霊体化しても文献は読めるという事だろうか。夜な夜な図書館でお勉強しているのだろうか、街中で会話を聴きながらリスニングやシャドーイングをしているのだろうか。

…いいじゃない、素敵じゃない。

”人生死ぬまで勉強”という意見もあるくらいだ。

案外、”死んでも勉強”という説があっても良かろう。

念を訴えるためにひたむきに勉強するのが幽霊だとしたら、幽霊の持つ怖いイメージも真面目なイメージがつくかもしれない。

一方で復讐のために知恵をつける復讐者のような根の深さならぬ念の深さに畏怖してしまうものがある事も否めないだろうか)

・霊が粒子や電子あったとしても細胞はないのに実体化のよう噂があるのは何故だろう

(何かしらの念や電気信号で幻覚や幽霊が見えてしまうというのならわかる。

脳ならば誤作動も起こしやすいだろう。しかし、機械媒体にまで鮮明に映ることを想像しにくい。

脳とは理屈が違う。もし映像化できるくらいにインクや画像の粒子の配置を決めれるのなら、海に文字を書く事も、雲で文字を書く事も念?でできるのではなかろうか。

やはり霊も人間のようにエネルギーに限界があるのだろうか)

・霊視があるなら、恐らく霊視力もあるかもしれない。(霊を見える視力の数値)
その霊視力の度合いによって、多く見える人と少ししか見えない人がいるという可能性もなくはない。(通常の視野や視力が個々違うように)

などなど、疑問を挙げるとそれなりに積もりそうである。

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体や脳は器という媒体に過ぎない説

脳は電気信号で動いている。(とされている)

確かに頭の中でバチバチ、ピシピシなどと鳴るというような事を経験している人もいるかとは思われる。(通常あまり感じないだろうことだけに嬉しい事ではない)

それらの電気信号や伝達物質の送受信によって気分は変化し知覚も変化する。(恐らく)

不具合が起これば神経症や精神疾患や認知症や人格すら変わることもある事を思うと、

それらの感覚は脳や体によって再現されている事になる。

つまり思念や電子的な物が肉体を離れたとしたならば、その念は人格を保てないはずである。

では、人格を保てなくなった念が生前の姿を実体で保てるとしたらどんな場合だろう?

例えば、遺伝子構造のように電子構造に成長過程がインプットされているのかもしれない。

だとしたら媒体、例えば他者の脳を通してホログラムのように脳内再生される事はあり得るのだろうか…

疑問は山ほどあれど、それだと栄養の摂取によって増減する体型、生後得た傷などは再現できないのではなかろうか。

そうすると落ち武者の霊など傷を負った霊を見るという事はない事になる。

プログラムだけが他人を媒体として再生できるのであれば、そのプログラムが正常に育った形が描写されるはずである。

それとも成長過程で得た変化すらも上書きされていくのだろうか。

経験や傷を得る事でプログラムの電子構造にも蓄積、変化が起こるのであれば、あるいは…という妄想。

媒体(脳)がないところで映像化はしないのかもしれない

少なくとも媒体無しの場所で実体かのように映像が出現するというイメージは持てない。

写真や動画に映るならば実体化が映るならば、これだけ監視カメラが拡がった世界なら毎日のように浮いているモノや実体化した霊体(人間以外も含む)が写っていてもおかしくはない。

それがほぼ挙がらないという事は、
・現存する生き物と区別がつかない
・出現が極めて稀

などが妥当な憶測だろうか。

少なくとも毎日見えていると語る人もいるというくらいである。

それを事実だと仮定すれば、その人だけに見えるという事である。

つまりその人が見ているのは実体ではない他の何かである。

思念体のようなものが見える眼や脳または実際に何もない場所でも誰かを認識してしまう脳内再生だけをしている。

それが能力として霊視なのか、障害としての幻覚なのか

というところも意見の分岐点であり、またそれも早計な憶測なのかもしれない。

少なくとも外界においては実態像を持つ霊は居ない、もしくは極めて稀という事だろうか。

霊視能力よりも実体を捉える監視能力を備えた監視カメラの存在がそれを物語っているようにも思わなくはない。

(監視カメラよりも高い空に実体化している可能性は無きにしも非ず)

それこそ浮いたとしても四方八方が幽霊で地球が埋まってしまっているように見えるのではないか…

という突っ込みを覚えなくもないけれど、

出現霊が極めて稀であり、本来は霊界という場所にいると仮定するならば、

脱獄してくる例ならぬ霊も稀かろう。

(人間界での囚人の脱獄もそう頻繁ではない事を思うと…)

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何故幽霊は服を着ているのだろう

衣服は現世にある物質である。

それを着ているのとなると些か首を傾げてる動機にはなるだろうか。

ただ、霊界でも御召し物があるのかもしれない。

でも、何故、亡くなった当時の衣装というような設定が多いの?

(その方がフィクションで描きやすいから)

という元も子もない意見はさて置くとして、

それも自身の外観が電子構造のようなものでプログラムされているとして生前の経験によって上書きされていくものだとしたら、自分の嗜好や服装や傾向まで上書きされているのかもしれない。

夢のように、あるいは幻覚のように。

あくまで霊を察知できる人の脳に働いてると仮定するならば、そういう可能性もあるのかもしれない。

流石に幽霊見えてる人が、すっぽんぽんの霊体しか見えないとしよう。

それは、それなりにおぞましい光景ではなかろうか。

自分の好みだけを見れるわけではないのだから…

さぞかし目の毒だろう。

いけないものを眼にしているようで、あるいは見たくないものを見ているようで町を歩くことさえも挙動不審になりそうである。

どうか、見えている人にとって全ての霊がすっぽんぽんでない事を祈りたい。

もし、すっぽんぽんならばフィクションを作る時も一手間増えそうである。

(放送できるように”この作品は幽霊に衣服を着せています”という注意書きが必要になるかもしれない)

霊界があるとすれば、霊界の規則も恐らくあるだろう、無法地帯というわけではない。

摂理には何らかの法則もあろう。ただ人間には解明できないというだけの話かもしれない。

(実は摂理なんてものすら無いのが真実というオチもあるかもしれない)

思い込みの中で、仮説の中で右往左往しているのが人間である。

何かの中で”間”にいるヒト科の動物。

まるで葛藤こそ本分かのような皮肉さ混じりの真人間ならぬ間人間。

そんなツッコミを入れたところで、ツッコミを入れるとツッコミを入れられるお話を少々あるいは長々と。

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幽霊にツッコむと人間にツッコまれる

テレビや小説や漫画の幽霊の描き方はフィクションの演出である可能性の方が高そうではある。

実際居るならば、恐らくイメージとは異なるだろうし、スケールも異なるはずである。

どういう感想を抱くかは個々の解釈で良いことであり自体である。

ただ語り手になっていると、

横から手が飛んでくる事もある(人間の)

いや、槍が飛んでくる事もある(横槍が)

実際、”手”でもなく”槍”でもなく挟まれるのは”口”なのだけれども、

「憶測で幽霊が居ないと判断して決めつけるのは愚かだ」

そんな風な槍ではなく野次が飛んでくる事も無くはない。

ふと思う。

(居ないって言ってないけれど、と)

自身が決めてつけている事を自覚していないまま、他者には決めつけていると判断する事も相手の理屈に当てはまると”愚か”になる事に、無自覚である。

”自分は良くて他人はダメあるある”

人は自身を見る事すら簡単でもない。

自分で顔を見れないようなものだ、何かしら媒体がいる。

”他人のふりして我がふり直せ”

名言だとも思う

そして、他者と自己の言い分が一致しない可能性は考慮しておいた方が賢明である。

”愚か”の同意語を挙げるならば”疎か”なのだから。

しかし、それが言葉足らずに解釈されてしまう語り手が”疎か”なのか、自分本位の受け手が”疎か”なのかもまた議論が分かれるところ。

どちらにせよ、それらが悪いとも思わない。

人間らしいとさえ感じる。

また、面白いとも思う一面がないわけでもない。

(幽霊も人間霊ならば、また元人間)

他者を否定しているのに元人間を擁護している図というのは面白味がある。

兎に角、他人の解釈を勝手に自分の解釈で決めつけているという自覚は持ってから発言を選んだ方がトラブルは少なかろうというお話である。

(決めつけるから悪いわけではない

その後、他人に及んで傍迷惑となるのだ)

少なからず自分の憶測や疑問が正しいなんて思ってはいない人もいるだろう。

むしろ欠点だらけであるとさえ。

もし、それをこの人は勝手な正しさを主張していると思っているように感じるのであれば、

それは、その人自身が疑問やツッコミを入れる時に「自分の方が正しい」という前提があるという事になろう。

自分がそうだから他人がそう見える傾向は高そうだ。

(万人とまではいかなくても概ね)

そして、こういう駄目出しのように語る場合もまた「自身を正当化する」というような心理が働いての事だと思うと褒められたものではない。

第三者からすると、このような光景はドングリの背比べである。

(高さを競っているわけではなく低さを競ってるようなものだ)

低さを競うという意味ではドングリの背比べよりもリンボーダンスの丈比べだろうか。

(ただ勝負の中身は全く似ていない)

大抵、バーが倒れるのではなく共倒れとなるように感じる。

 

少なくとも霊より人間の方が余程トラブルを起こしやすく、そして恐ろしくもあるという一説かもしれない。

巻き込み事故なのか、巻き込まれ事故なのかは意見が分岐するところだろうけれど。

さてさて、散々、長々と戯言を並べてみたものの全く人間界と理屈が異なるとしたら全くもって見当外れな可能性もなくはない。

むしろその方が圧倒的に高い。

憶測という数打ってあてる戦法であっても当たらない。

的外れ…

的が遠いのか、立ち位置が根本的にズレているのかも定かではない。

分からないから面白味なのであって、分かったら何ら面白くない手品のようなものだ。

解明されたら解明されたで面白味が1つ減るのかもしれない。

在ると思う事で死後への希望を持つことで不安が和らぐのならば、それも良し

無いと思う事で現世を重んじるならば、それも良し

逆に言えば、死後を設定する事で現世を軽んじて為にはならないだろうし、死後を設定しない事で絶望しても為にはならない。

過信もせず、拒絶もせず、そんな風に個々の基準で都合よく思っていればいい事なのだろう。

価値観なんて押し売るものでもなく、感想程度に、持論程度に、フィクション程度に語っているくらいが丁度いい。

押し付けると価値観のドッヂボールが始まってしまう。

いや、”dodge”が避けるという意味な事を思うと語弊がある。名前的にはボールを避けるゲームなのだ。当てるゲームではない。

そう思うと、鬼ごっこ”なすりつけ合い”の方が近いかもしれない。

鬼が増えていく鬼ごっこだと終わりが見えてくるけれど、鬼が増えない鬼ごっこは終わりがない。

人の価値観のドッチボールは後者である事が多い。

終わりがない。霊界知らずのエンドレスだ。

その逆の終わりがあるということは、

終わる…つまり終わった事が始まる瞬間。

また始まりは終わりへ向かいはじめた瞬間。

そんな事を言うと意味深だ。

「あぁ、やっと終わったー」と勉強や家事や仕事を終えた時など台詞を

「あぁ、始まる〜(プライベートタイムが)」という台詞に変えてみると明るくなるかもしれない。

(変な奴かもしれない)

でも、指す意味は同じだ。