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ニュースを見ない、ニュースを見る、情報過多と疲弊

≪こんな感性あっていい≫

社会情勢の情報が必要な場合もあるため一概に言える事ではないけれど、

大方のニュースは知らなくて良い事が多いような多くないようなという事を綴り綴り…

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ニュースを観ない?観る?

 

「主張」と「視聴」って交互に読み上げると噛みそうですね。

という他愛も無いもない一言は捨ておき。

ブログなどは、まさに誰かの主張を視聴していると言えばそうなのですが、ニュースともなると主張というよりは概ね客観性に基づいた報告・報道である。

そのニュースを視聴するか自重するのかは、人によって異なるところ。

ただ、投資や起業家や情報を扱う人にとっては必要な事であっても、それらを扱わない人にとっては手に余るネガティヴな情報が多過ぎるようにも感じなくは無い。

災害情報や大きな社会情勢の変化は知っておきたいが、大抵のニュースは手に負えない上に知ったところでどうしようもない事である。

特に憶測の段階で飛び交うネガティヴなニュースを何度も観ていると感情を煽られやすい性格の人にとっては酷である。

では、ポジティブなニュースならばいいのか?

それはそれで嫉妬を煽られる事もあるだろうだけに良いのかどうかは分かり兼ねるところである。

ネガティヴやポジティブの良し悪し以上に、身に関係する情報を知るためのニュースではなくニュースに感情を左右されてるというところが問題だろうか?

能動的にニュースを利用しているというよりは、受動的にニュースに振り回されている。

というような気もしなくはない。

無論、手に負えないニュースや芸能報道に感情を左右されて「良かった」と感じる事は略略ないものだ。

災害情報だけは速報で知れた方が良いものであるが、それ以外で速報が必要なのは概ね当事者関係者くらいのものである。

それでも、ニュースを観る人がいるからこそ需要があり成立しているのだから、

極論、誰もが見向きしなくなれば情報が発信されなくなり情報閉鎖となる可能性を挙げると万人がニュース離れしたら困りものである。

理想だけを言うならば、必要なニュースだけを取捨選択できたら良いだけなのだけれど、

少し目にしたり聴いたりしただけで人は感情を伴ってしまいがちである。

 

それ故に、あまりに知らなくていい事であっえも不安や不快感を煽られるだけ煽られた挙句、どうにもならない知識の情報過多に陥り疲弊するというような事が往々として在る。

しかしながら、あれこれ不安や心配や考え事を増やしても処理できる事も詰め込める量も限られているものだ。

それなのに「できもしない事」や「どうにもならない事」ほど不安への保身からなのか、理想との差への不満からなのか「どうにかならないか」と、情報を詰め込みやすい性質がある事の方が主要(あるいは腫瘍)だろうか。

それは個々の癖の問題なのかもしれないけれど、あれこれ背負わなくて良いものまで背負う必要はどこにも無いことを頭ではなく、身に付けるというのは容易では無いなと感じるところでもある。

以上、どうにもならない事に対してあれこれと首突っ込まずに自重する癖も肝心だというお話でした。