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ふとした日常会話から喧嘩に至るパターンから物思いにふける

≪こんな感性あっていい≫

何気ない日常会話がいつの間にやら言い争いに発展しているといったことを何度経験した事だろうか。

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(むしろ発展どころか衰退していそうである。特に気分が)

ただ本音を晒す、溜まったものを吐き出す、という機会ならば決して悪い事ではないのだろう。

むしろ常に円満で争う事もないというのは些か以上の不気味さを感じる程である。

という事は置いておくとして、喧嘩に発展する状態を振り返ってみると大雑把に4つ挙げる事ができそうだ。

「暴言」・「否定」・「強要」・「沈黙」である。

「暴言」
故意であれ無意識であれ言葉の暴力と受け手側が判断を下した時点で成立してしまうだけに、例え褒め言葉であっても嫌味や暴力と成り得る事も多い。

「否定」
非難・批判といったものも含むが、否定されると不快なものである。

それは恐らく自身をも否定されているという感覚が心地悪いのだ。ただその時の態度や判断というものが否定されているのであって自身全てに飛躍する必要はないのかもしれない。

例えばどれだけ好意を持てる相手でも嫌なところの1つや2つ上げれるのと似たようなもので1つや2つ否定される事があるのは極々正常とも言えるのかもしれない。

(ただ否定された時は、そんな後付けの理屈よりも先に不快さという感情が芽生えるのだから根本的な解決案にはならない気休めのようなものである事には違いない…)

「強要」
~しなさい、~しろ、~すべき、といった押し付けられたと感じる事は億劫である。(特に自覚している事を念押しされたり催促されると不服が積もりやすいものだ)

言う側には、言う側の都合というものがあるのは理解はしていても納得はしていない故かもしれない。それは言われる側には言われる側の都合があり、例え自身が至らないから言われることであっても指摘されるのは心地悪いからであろう。

だからと言って触れるなということでもない。指摘していいものだ。ただ指摘しておいて「噛みついてくるな!」というのもまた言う側の我儘とよべるのかもしれない…(豚も煽てりゃ木に登るではないが藪も突けば蛇に出くわす事もあるってものだ)

ただ至らぬ点を指摘されるならともかく言い手もできていない理想論を押し付けられたと感じると、「そんなものを他人に押し付けるな!」と心有りに思う事請け合いである。

例え言い手が出来ていたとしても、貴方と私は違うと感じる人も少なくはないだけに教えを説こうとしても反骨心を刺激することもあるだろう。

「やってはいけない」と念を押されるとやってみたくもなってしまう事があるように「やらなきゃいけない」と無理に背を押されるとやりたくなくなるようなものだ。

(やらせるために言ったことが、やりたくない理由にされてしまうという本末転倒は良くある話である)

「沈黙」
いわゆる無視、放置を含む。会話において沈黙されるという事は、キャッチボールで投げたボールをスル―され一人で取りに走り回っているようなものだろうか。

会話の中の問いかけに対しての反応、問題に対しての回答を求めている人ほど、それが得られないという事は不快さを突かれやすくなるものだ。

と4つほど心当たる事を挙げてみたものの、良し悪しについては判断しかねるものだ。

恐らく正解はないであろうし、あちらを立てればこちらが立たず、こちらを立てればあちらが立たずと言ったもののように思わなくもない。

それは頭で解っている事であっても言葉や態度を伴えない事もあるだろうし、我慢する事で衝突を回避できたとしても繰り越されてしまう事もあろう。

それに加え喧嘩の目的も個々異なるであろうし、その理由が一律とは限らないのだ。

よくありそうな喧嘩による売り言葉に買い言葉。それらを繰り返した挙句、原因や理由よりも相手を言い負かすに事に躍起になっているというのが一例である。

一体、喧嘩の目的とはなんだろう?

言い勝ちたいのか

悪者を決めたいのか

原因を指摘したいのか

解決を思案したいのか

ただ自身と異なるものを否定したいだけなのか

等々

その目的(心情)によって喧嘩の方向性も左右されるのであろうし、先に挙げたように言い争いの中で当初の目的を見失うこともあるのだろう。

いっそホワイトボードに喧嘩のテーマとどうしたいのかという方向性を書き上げてから争うといいのかもしれない。

(そんな余裕や理解を示してもらえる関係性ならば苦労はしないのだろうが…)

ただ喧嘩の仕方や一定の規則を設けて置くのは、悪くは無さそうである。

例えば、会話の受け答えによる喧嘩は両成敗!まず最初にごめんなさい!

そんな家訓が実行できるのであれば微笑ましそうである。

そのような理想とは程遠くとも言い争いは必要なものであるだけに悪く取り過ぎる必要もないのだろうと思っていたいものである。(争いに対して気に病み気を病むことが何より問題である)