携帯が普及した時代において便箋にて想いを乗せるというのは減っているだろうか。
それ故に便箋に思いを乗せるというのは新鮮味を増したように感じます。
そのラブレターを受け取った人はその後どうするのだろう?
遺すor捨てる
遺す場合は、『思い出』
捨てる場合は、『興味が無い(あるいは嫌いになった)』または『現パートナーに悪い(あるいは見つかって処分を迫られた)』
が概ねの理由だろうか?
その他、好意が強すぎる故に思い返さないように破棄する事もあり得る話の1つでしょうか。
では、逆に自分が送った手紙についてはどうだろうか?
遺されたら嬉しいだろうか?
捨てて欲しいと願うものだろうか?
特に片恋から送った手紙が振られた上に遺されたら恥ずかしさや切なさから破棄されたいものかもしれません。
また、付き合っていたとしても別れた後は捨てて欲しいと思うものだろうか。
どれも個々によるところが大きいため一概に言えたものではないけれど、
個人的な事だけを言うと遺されていても捨てられていても構わないとは思うものの感情は少なからず煽られそうである。
そう言う理由としては、(妄想上)昔の恋人や片恋相手に再会した時に
「まだあの時の手紙持ってるよ」
と言われるのと
「貰った手紙は捨てたよ」
と言われるのは、どっちが良いだろう?と自問自答してみると、
遺されていても「あぁ、そうなんだ」と言って流してしまうだろうし、捨てられていたとしたら少し物寂しく感じそうである。
当然の事だが、全く興味がないんだなという事実に儚さを感じるかもしれません。(自分にも未練がなくとも、わざわざ言われると感情を多少なり煽られてしまうものなのでしょうね)
それ故に捨てて欲しいと願っている人であっても捨てられ方によっては不快さを感じるのかもしれません。(知らぬが仏なのでしょう)
参考までに、
近年の独身者のカップル数を取り上げてみると、約6〜7割が恋人おらずである。
異性の交際相手をもたない未婚者は引き続き増加し、男性69.8%(前回61.4%)、女性59.1%(同49.5%)となった。
(出典:国立社会保障・人口問題研究所「第15回出生動向基本調査」-集計結果のポイント-独身者調査)
上記は2016発表(2015年度調査)のうちの独身者調査の一部です。(独身者調査は調査区からの無作為選出:有効者票数8754票)
その数字だけを見ると恋人を有さない人が増えているよ」という話である。
恋人を有せないのか、はたまた有したくないのかは定かではないが、
同調査での結婚願望を抱いている割合においては、男女共に将来的には結婚したいと考えている人が8〜9割である。
その事を加味すると、パートナーがいらないと思っている人は少ないという事にはなるのだろう。
(恋人と結婚を同列に解釈できるものではないけれど…)
少なからず、SNSの普及だけではなく、恋心が結ばれない(あるいは恋心を抱かない)時代背景によっても「ラブレターの活躍の場が減っていそう」という事ではあるのだろう。
(SNSの普及によって人間関係がインスタント化する事で恋人がいなくても満たされやすい環境にあるというのも1つの要因なのだろうけれど)
…
さて、本題に戻してラブレターの処分について綴っていきましょう。
ラブレターの処分の方法は?
・燃やす
・シュレッダーにかける
・ビリビリに破る
・そのままの状態でゴミ箱等に捨てる
・差出人に返却する
などが挙げられると思います。
この中では、そのまま捨てるのはマナー違反かもしれませんね。
差出人への好意や嫌悪の有無に関わらず第三者に漏れてしまう可能性がある選択肢は望ましいとは言い難い。
また、差出人に返却すると言うのも差出人からしたら「酷」かもしれないのでお勧めはできません。
中には破棄して欲しいと願い出る人もいるので、ちゃんと破棄してもらえたか心配という理由から返却されたい方もおられます。
が、
返却を求められてない場合においては、返却しない方がトラブルを避けれるかもしれません。
しかしながら先述したように、いつ返却を求められるかも分からないため軽々に捨ててしまうと後で困る事になるケースもあり得る話。
(経験上では返却を求められた事はありませんが、自身で破棄した事は後述しております)
例えば、捨ててしまったのに返してと言われ、捨てたと言っても「嘘だ」と言われる事も無きにしも非ずです。
こればかりは実物を目の前に出してもらわない限り確認しようが無いですからね。
とは言え、実物が目の前に出されたからと言って安心するのも軽々な判断でもあります。
コピーや写真という媒体があるため安心出来ないですものね、疑えば疑う程に疑心暗鬼に陥ります。
これについては深追いしない方が良いように思います。どこまで言ってもキリがない上にこじれると危険である。
そう考えると後で困るような恥ずかしいお言葉を綴り過ぎない事が賢明なのかもしれませんが、返してもらう事を前提で想いを馳せる感情というのはそれはそれで卑屈過ぎるだろうと思わなくもないですね。
1つだけ確かな事は、終わった事に波風を立てても傷やトラブルが増す可能性が高いです!
そのため必要以上に深追いし過ぎないように心掛けて欲しいところ…
ラブレターを処分しやすい心情や理屈
思い出として遺して置くのもいいけれど、そこに書かれている想いは過去のものであって今は無い。(少なくとも相手の気持ちはそこから離れている事の方が多い)
つまり、中身(想い)のない手紙に成り下がっているという現実。
(これはラブレターを破棄した理由にも使えるかとは思います。「過去の気持ちを遺していても虚しいから捨てたよ」と理由を述べられて嘘だ!返せ!という人は稀でしょう)
それに本当に嬉しかった事や嫌な事は、形がなくても記憶には刻まれているもののようにも思う。
そんな事をふと思った成人過ぎたある日の事、手紙を纏めて空の植木鉢の中に入れて燃やしました。
処分する前に全てのラブレターを燃やすと一体どう感じるだろうか?
未練が生まれて後悔するだろうか?
などと想像してみたものの
いざその時になるとただ燃えただけである。
特に悲しいわけでもなく
切ないわけでもなく
嬉しいわけでもなく
楽しいわけでもない。
ただただ萌えもせずに燃え尽きていきました。
そして燃えた後の灰を眺めても、既に手紙の中身が灰のようなものだけに
焼失したものの消失感があるわけでもなく
ただ可愛い便箋が火に包まれて灰色になり、最後に棒で叩く(つつく)とサクサクと砕けていきました。
という昔話。
兎にも角にも遺すか捨てるかという選択は、
過去に在った想いに目を向けるか
今は無き想いに目を向けるか
の違いのように感じます。
それでも選べるだけ受取る側は幸いでしょうか。
差出人は差し出した後は自由に選べないですからね。
捨てて欲しい差出人にとって尚更です。
過去の想いが風化した過去の手紙を恋の抜け殻と称しても恋文から恋が抜けたら「ただの文」という程には人の感情は単純ではないからこそ差出人の立場では捨てて欲しくなるのかもしれませんね。
ただの文になるならば、遺されても捨てられても良いはずですから「小っ恥ずかしい文」「見られたくない文」になっているんでしょうね。
やはり「恥ずかしさ」や「流失しないかという不安」が大きいという事でしょうか。
少々話が捻りますが、恥の文化というと、ルース・ベネディクトの『菊の刀』という著書には「欧米は罪を意識する文化」「日本は恥を意識する文化」というような表現がありますが、周りの目を気にして恥ずかしい文が残っているのが嫌だというのは恥の文化の一部なのかもしれませんね。
有名な日本人論として評価されているだけあって読んでみると、文化の違いによる風習や視点の差異について感慨深くなれるかもしれません。(書き手からの視点や時代背景と受け手個々の視点によりけりだとは思われますが戦時中の視点からよく分析されていると感じます)
著書には直接関係ないラブレターというテーマとは言え、ラブレターの破棄・保管の理由についても文化の違いが統計的に偏りが生じるほどに反映されていたりするのだろうか…
そもそも手紙自体が減っているであろう時代である事が物寂しいのだけれど、
それもまたクリスマスカードや誕生日カードを貰うとホッコリさが増したように感じれるのであれば一概に電子化が悪いとは言い難くもある。
むしろ「直筆メッセージが貴重に感じれる時代になった」と寿いでいい事のかもしれませんね。
それ故に一層、捨てづらさは増すのかもしれませんが…
それでも誰かに向けて想いを綴るという事は微笑ましい事ですね。