自分を疑う勇気によって楽しみを増やす


自分を信じる事と共に時に疑ってみるという事も楽しみや新発見には欠かせないものではなかろうかという事をつらつらと綴る…

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自己肯定感と自己疑心

自身を信じる力(自己肯定感)が大事なように、自身を疑う勇気もまた大切である。

というと、自分を信じる事が揺らいでしまうのでは?と首を傾げてしまいそうであるが、平たく言うと自身にとって悪循環となっている固定概念を削るためには疑う事も必要となってくるという事である。

所謂、「食わず嫌い」や「やらず嫌い」もそれに当たる。

より端的に言えば「偏見」である。

それが悪いというわけではなく、それによってストレスが増えてしまう場合には問題となり得るという事だ。

そもそも人は思い込んでしまいやすい生き物であるし、自身の育った環境で染み付いた価値観や経験則および嗜好によりけりなので「偏見」が生じる事自体を「悪」とするのは、些か以上に酷である。

極端な事を言えば、偏見が悪いという事自体も一種の偏見である。

肝心な事は、偏見による視野の狭さを問題に感じている人が、価値観の枠組みを広げようとする事で快適さを感じれるかどうかである。

決して、悪者探しをすることではありません。(偏見が悪いと決定しても食わず嫌い、やらず嫌いといった様々な固定概念は変わらないどころか、むしろ強固になっていくリスクをも孕みます)

やりたい事は、よりよい自分探しである^^また、そのためにできる事の一つが自身を疑うという行為である。

事前評価に固執し過ぎない、事後評価に着目する

第一印象は誰しもが何かしらの感情を抱くものである。(もちろん第二印象以降にも感情が伴うものである)

また、偏見を強く持ちやすい傾向の1つとして第一印象に固執しがちという事は珍しくはない。

そのため第二、第三印象を観ない事もしばしばである。

ただ、価値観を広げるにあたって第二、第三以降の感覚にも目を向けてみるのが効果的であるという事であって第一印象や直感を否定するものではないことは伝えておきたいポイントである。

(余談にはなりますが、誤解や偏見を生じやすいというリスクはあっても直感というものは本能的に適切なものを選択している事も多いという説があるため、それを軽んじていいものでもないのでしょう。)

とは言っても、第一印象や染み付いた固定概念を削りたいという場合においては、「本当にそうだろうか?」と自身の判断を疑ってみるのもまた、第二、第三以降の印象に着目しやすくなる切っ掛けとなる。

大きく3つ!辿りやすい経過

・思い込み通りだった時

・良い意味で思い込み以上だった時

・悪い意味で思い込み以上だった時

個々の感じ方によって様々であろう感想の数々。

「やっぱりね」「思った通り」

「思ってより良かった」「思ってたのと違った」

「もう最悪」「やるんじゃなかった」

などなど

重要なのは経過に対し素直な感情で反応することである。

特に避けたいのは嬉しいのに喜ばない事が格好いい等と喜びをやり過ごすや怒りたいのに器が小さいと思われたくないからと我慢し続けるなどの「抑圧」である。

それを繰り返していると、次第に強化され習慣となり、固定概念の一部となる。

そのため単的に観ていた事を時には総合的に観直し、純粋な観点から自身にとって不都合になっている思い込み(あるいは抑圧)を削り、必要であろう感覚や価値観を受け入れていくという作業が効果を見込めるのである。

少なくとも不都合な形で凝り固まってしまっているものを削れるだけで大きな成果である。

例えば、今まで自身の思い込みによってつまらなくしていたものが楽しいと感じれたなら喜ばしいという事である。

情報のアウトプットとインプット(そのための疑う事と信じる事や忘却と学習)の繰り返しによって概念は変化し続けていくのかもしれませんね。