友達とは曖昧なもの
いたらいたでいいし、いなくてもやっていけるならそれでいいような気もしなくはなく、
わざわざ思い悩む必要もないように感じなくもない。
友達がいない事を誇る必要もなければ、
いない事を恥じる必要もない。
「揺らぐのが当然の曖昧なもの」
友達然り、恋人然り、絆然り
そういうものにわざわざ「ここから、ここまではコレ!」という明確な線引きをする事には、大した意味はないのかもしれない。
何かが起これば、揺らぐものに線を引いたつもりでも所詮「つもり以上つもり未満のつもらない止まり」である。
(友達以上恋人未満は友達止まりであるように)
例えば、砂浜に線を引いて「ここから内側は私のテリトリーだ」と言っても、他人は別にその線引きを遵守してくれるわけでもないように、
友達の基準を勝手に決めても自身の友達像を他人が遵守してくれるわけではない。
そもそも友達という枠組みをハッキリさせなくても、
利害が一致すれば群れているだろうし、
利害が不一致であれば群れを外れる事もある。
友達かどうかという抽象的な事より具体的な中身で利害を判断している
友達であるかどうかより、その他者といて楽しいか、得たものがあったかを判断しているに過ぎないのではなかろうか。
その結果、自分にとって都合良いものを友達と思い込み、都合が悪いものを友達とは思わない。
そんな事を述べると、
私たちは友達かどうか?と言うよりは、
何らかの出来事や行動を共にしたことによって自分が友達と思えたかどうかが基準である。
明確に友達と思える人はいなくてもいいが、頼れる、話せる人はいた方がいい
はっきりと友達と断言できる人がいた方がいいのかは分からないが、
頼れる人がいないよりは、いた方がいいし、
話せる人がいないよりは、いた方がいい。
選択肢は、ある程度ある方がいいし、協力してくれる者がいると助かることは多い。
友達がいなくても物事は回る
友達がどうか分からなくても物事は回るものである。
むしろ、「友達かどうかを気にして物事が回らず、ストレスが溜まる方が余程の不健全だ!」と言われれば確かにそうである。
とは言え、
友達と思ってくれる人を、わざわざ友達じゃないからと一蹴する必要もなく、
友達と思ってない人に、どうか友達になってくださいよと強要する必要もない。
曖昧なまま「こういうのが友達?というやつか」くらいで良いようにも思わなくもない。
無論、自ら友達と思えるならば、思えた事に越したことはないだろうし、
たとえそうは思えなくても気に病んでないのならば、問題があるわけではない。
友達確認をしない方が健全!?
「俺たち、私たちは友達だよね?」なんてはっきりさせても腹の内は分からないものだけに、あまりそういう事を深く掘り下げようとしない方が快適だと思われる。
必要と感じたら必要で、不必要と感じたら不必要でいいものかもしれない。
「友達は何人?」という問には、「0人以上」、理由としては「数えた事ないもの」で十分な気もしなくはない。
親友もまた友達と同じく個人の一方通行!?
また、真の友情と比喩される親友の概念において、
困った時に融通を利かせてくれようとする仲良しに「真の友情」を感じるのかもしれないけれど、融通を利かせたくても融通が利かない時に断った場合に、避けられた感じる人もいるのだろうから、やはり親友という友情も個人の裁量次第である。
以上、感情の真相を確かめようがないだけに曖昧なほどに曖昧なものかもしれないというお話でした。