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のら猫がこっちを見ている!警戒心とネコとヒト

≪こんな感性あっていい≫

とある道をテクテクと歩く。
ありふれた道並みをありふれた歩幅で進んでいると!!!

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柵の上のネコが「!!!」とばかりの熱い視線

 ふと視線を上にやると横の方で「!!!」とネコが警戒心を露わにしているではないか。

少々距離がある上に反対を向いていたはずなのだけれど、こちらの存在に気づくとはなんとも警戒心が高い。

近所では野良猫が増えているいうような噂を聞くのだけれど、人が都心に密集する事で過疎化しつつある地域では野性動物の住みやすさが戻りつつあるのかもしれない。(という憶測)

それはそうと高いところでどうやってバランス取ってるんだろう?と首を傾げたくなる体勢にも関わらず見事に座り込んでる「柵の上のネコ」。

そのようなタイトルの書物がありそうだと妄想してみるものの

実際に柵の上のネコというような書物は存じてはいないのだけれども

猫に纏わる書物を挙げてみると、

『樹のうえで猫が見ている』著者:やまだ紫
という詩画集。

また、絵本で言えば、『100万回生きたねこ』著者:佐野洋子

の2つが思い付きます。

各々の作者の作品には名作と呼ばれるものが多く存在する。(どちらの作者も亡くなられているため存命している時代に生まれ、その作品に触れた身としては切なくもあるものの、それらの作品が今もなお愛されている事は何だか嬉しくもあるところです)

特に『100万回生きた猫』は幼少期に読み聞かされた事がある人も多そうである。

その内の1人としては、大人になって読み返してみると「深いなぁ」と感じるものがある。

時を経て感じ方が変わる。それも書物の魅力の1つだろうか。

それは幼少期とのイメージ力や読解力や知識量の差によるものだとは思われますが、同じ作品を何度も楽しめるのだから感性の変化も面白いものである。

そんな事を思い出しながら睨めっこを繰り広げているのであった。

繰り広げるというよりは、立ち止まっているだけの事である。

「柵の上のネコ」との睨めっこ。

あっぷっぷはしないものの、撮影のために被写体をアップップ(ズーム)。

黒猫がこちらを見ている。

黒猫がこちらを見下している。

こちらは黒猫を見上げている。

「黒猫さんよ、何を思う?」なんて事を考えてみるが、

言わんとしたい事は、分からなくもない。

一言で言えば、
「こっち見てんじゃねーよ」
なのだろう。

ジーッとこちらを眺めて視線を外さない姿勢は警戒心全開である。

野生動物としては至極当然だ。

そう思うと、人間くらいじゃなかろうか?

外出しながらでも警戒心が低かったりするのは。

街中において常に周囲をキョロキョロしながら歩いている人をあまり見かけないものだ。

もしも、野生動物並に警戒心バリバリのバリ3通信でアンテナを張り巡らせたとしたら、人間の気力や体力(あるいは集中力)は何時間持続できるのだろうか⁉︎という事に興味が無くもない。

やはり警戒心全開で外出すれば、ドッと疲弊するだろうか。(人間関係が疑心暗鬼になりそうではある)

日頃から

・交通トラブルを意識
・トイレや手すりなどの細菌についても意識
・誰かに狙われていないかを意識
などなど

最低限意識しておいた方がいい事も多々あれど、全てに警戒を尽くしたら一日経たずに尽きる気がしなくもない。

やはり人とは比較にならないほどに野生動物は器用なのだろう。

それを「警戒へのメリハリ」が身についていると言えばいいのだろうか。

自身のテリトリーに警戒網を張りながら逃げやすい体勢にて休息する方法も身についている。

そんな事を思うと柵の上からコチラを見下しているという邪推にも納得したくなるものだ。

そうさな、黒猫さんより格段に不器用である身としては素直に嫉妬を抱こうではないか。

「良いな、お主は器用で!」

と言わんばかりにそっぽを向いてその場を去ってやった。

いや、尻尾を巻いて逃げたという下から目線が正しいようにも思う。

去った後で黒猫さんは「やっとのんびりできるぜ!」と警戒レベルを下げるのだろう。

以上、とある道での柵の上のネコを眺めて心思う事であった。