友達に飽きる、飽きた、飽きられた!?

友達に飽きる

人間やり過ぎれば何事も飽きやすいもの。

中には、飽きずに生涯何かに熱狂し続けれる人もいるようだけれど、勿論そうでない人も多いものだ。

何故、友達飽きるのか

・頻繁に接し過ぎてやっている事が似たような事の繰り返し

毎食同じ食事をしてると好物でも受け付けなくなってきたりはするもの。

そんな風に同じような繰り返し、知ってる事ややり尽くした事を何度もすると言うのは億劫さを感じやすいものかもしれません。

(何度も同じ事を繰り返す事でうんざりする一面もあるけれど、ものによっては上達や熟練度は増すもの、視点をズラすとやり甲斐になる場合もあるためマンネリ=終局というよりは、冷却期間、伸び悩みなのかもしれません)

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友達との関係性の伸び悩み

離れるもよし、
一時停止して考察するも良し、
無理して合わせて、「合わせてやってるのにらなぁ」というようなストレスに感じやすい環境をつくると返って衝突しやすくなる事を思うと、当たり障りのない理由を並べて避けるのが妥当だろうか。

何度も避けていると、相手の方から必要に誘ってくる事は減りやすい。

それは、優先順位が下がっている事かもしれないし、断られるのが嫌だから相手も避け始めているのかもしれない。

が、「自分の地位は下げたくないが、程よい距離を保ってくれ」というのは傲慢だろう。

他人の評価は、他人が決めればいい。

他人の評価を気にして演じ続けてもストレスは溜まり続けるだけである。

・本当はやりたく無い遊びや本当は居たくない人と接している

仲間内で何かが流行ると、自分は好みではない事も一緒に行動する機会はあるもの。

また、仲間内の中にあまり好きでない人もいたりはするもの。

そういうのに合わせれる協調性というのは、大切であるものの、無理をし過ぎれば億劫になっていく。

例えば、ゲームが好きじゃない友達は片隅で本を読んでいたりしたし、仲間内での会話に興味が無く盛り上がれない友達は他の友達の電話をし出し、そっちと合流すると言い出す事もあったりと。

割と、興味のない事を空気を気にせず避ける人もいるものだ。

それが悪いわけでは無いのだけれど

自分の時間を有意義に使いたいのであれば、時に他者に角が立つ事もある…

たとえ、周りに合わせて我慢していたとしても所詮は「良い人」「都合の良い人」なのかもしれないと感じなくもないところ。

確かに、自分から誘っておいて自分が会話に入れないという理由で「他の友達と合流するから駅まで送って」と言われると、

「いや、君が行きたいんだから自分で行きなよ」

と内心は思ってしまう。

そう思いながら口に出すとモメ事に発展しやすいため、当たり障りなく送り届ける事もあったり。と、人間関係は自分の思うようには行かない事が溢れていてストレスフルでもある。

とは言え、身勝手な行動は他者には嫌われやすくもなるため注意が必要なんだとも感じるところ。

ただ、我慢し過ぎて爆発してしまうよりは、自身の有意義にすると言う事も大切なのかもしれません。

・グループなどで格差を感じる

集団では、対等なんてありゃしない。
「人間が2人以上集まれば序列ができる」と言うのも頷けるものです。

ただ序列ができるのが自然だと言っても、その序列を受け入れれるかというのは別問題。

リーダーのような仕切り屋が疎まれるリスクがあるように、下っ端のようなパシリ屋が虐げられる事も無くはない。

(皆、腹の内は不満たっぷりなのだろうか)

そういう序列が面倒で窓際族をやっているような場合でも、輪に入りきれない事や、ほっていかれたりする事に不服を感じている事もしばしばだ。

孤独も不満、窓際も不満、集団も不満

どれにも不満はありふれている事を思うと、何だか言葉に詰まるものがありますね。

物事の良い面より悪い面を見て不満を垂れるという性格の問題かもしれない。

そうやって不満を垂れながら発散していると取る方が正常なのか、拍車がかかり過ぎてエスカレートしているかもしれない事を思うと異常なのかは自覚が難しいところ…。

(無論、どれにも楽しい面もある)

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・気を遣う事に疲れた

生真面目な人や小心者に多いかもしれない気疲れ。

その性格気質がネックだと言われても、性格をどうこうできるなら苦労はしない。

運動すれば程よい体が出来上がる!何て言われても、その運動が辛い。

その辛さが成長の証でもあるのだけれど、
だからそれを良し!とは出来ず、辛さにへし折れてしまう事もあるものだ。

人間関係もまた、協調性や気を使うことは必要でも、内心それがしんどい。

流石に我慢し続けるのは、無理だ。

我慢した結果、気を病んでしまう何て事は往々にしてある。

気を使う事が美学、思いやりが美徳と言われるのも分からなくはないけれど。

「思いやってる人の立場を思いやれ」と感じなくもない。

時々、人間関係はギブアンドギブだ!という言葉もあるけれど、

「石油じゃあるまいし」

(石油のように何百年も提供できるエネルギーなんてない)

と雨水が溜まったくらいの狭量な資源しか持っていないんだもの。

ギブアップギブ、与えれるものに溢れているものしかできないのではなかろうか?とも思わなくもないけれど、

恐らく、そういう意味ではなく他者に期待しすぎに与えれる時に与えれる範囲で!

という意味合いなのだろう。

与えれない時はNO!やNOTHING!

でいいものだ。

与えられる側も、与えられる事が当たり前になる程、厚かましさが増していく。

(人間は割と貪欲だ)

そんな貪欲さは美徳に反するなんて無理していると自分は我慢しているのに狡い!

と嫉妬や不満を抱きやすくなる事を思うと、生真面目すぎるというのも考えものである。

生真面目であるならば、まず自身に無茶をさせない真面目さを優先した方がいいんだろう。それが例え美徳に反しようとも…

故に友達との関係でも、気を使い過ぎる必要は本来ない。

友達が勝手に行動し友達が勝手に責任を負う事である。

必要以上に気にかけたところで、いざ立場が違えば「その人は自分に配慮してくれるだろうか?」

どこぞのヒーローのように与え、与え、慕われるなんて言うほどの資源が自分にあるだろうか…

と時に、打算的な配慮をする事も必要なのかもしれない。

と幾つか理由を挙げて語らってみたものの

どうだろう?

こういう事をわざわざ思い悩まなくても

「飽きちゃう事もあるよねぇ」

「あっちゃ〜、やってきたよ」

「これが友達倦怠期か、へぇ」

で良いんだと思う。

それをどうしようにも、どうこうできるもんではないんだもの。

(思ってしまった感情は無くせはしませんのは御当然)

それが一時的なものか、長期的なものか、生涯永久的なものかなんて分かるわけもないのだから。

様子見、もしくは、したいようにすればいい。

何ら思い悩み過ぎることは、無いことだ。

こういうことってあるんだなぁ…

ということが山ほどある。

まるで自分だけの事かと思うと不安に煽られやすくもなるものの…

自分だけの事もあるだろうし、案外他者も似たような葛藤を覚えている事もあるものだ。

それは気休めくらいにしかならないにせよ…

(それでも気休めになるのならそれが何よりなのかもしれない)

そんな事を思いながら、飽きる事もあるし、飽きられる事もある。

無論、呆れる事も呆れられる事も山々である。

友達関係だって飽きたらダメなわけでもないし、飽きたからと嫌わなければならないわけでもない、無論、絶縁しなければならないわけでもない事を思うと、

割と自由度が高い事はポジティブに捉えてみてもいいのかもしれないというお話なのかもしれない。