詮索する人が嫌い⁉︎:隣の人は恋人?からのカミュニケーション

基本的にプライベートを詮索されて「超嬉しい!」という人間はあまりいそうにないけれど、詮索すると嫌がられるといった事は、まぁまぁある事という一例を腹の裏の声を挟みながら綴り綴り…

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詮索する人は嫌われる⁉︎

これは、恋心が化石化するくらい大昔のことである。

初めて知りました。

「化石化」が左から見ても右から見ても同じ漢字だという事を!

という事は投げ捨てておいて、

とある昔、とある日、とある教室で、

隣の人から離れて座っていた男女について

「あの人たち、付き合ってるの?」

と訪ねられた際、

裏音声:「そんな事知るわけないだろう」

という腹の裏の思いを押し込めて、

実音声:「さぁ?気になるなら聞いてみようか?」

と、その男女と仲の良い知人を知っていたためにお節介ならぬ有り難迷惑を焼いてしまったのだが、

案の定というより不覚にも

当人の男女たちにではなく、尋ねた知人から

「男女が隣にいるだけで、そういう事を思うのって嫌いだわ」(イメージ的にこんな感じの台詞)

というような即答がメールにて届いた。

裏音声:「余計な事に首突っ込んだ挙句に、自分がそう思ってたみたいに解釈されてるじゃん」

という理不尽感を押し込めつつ、

実音声:「申し訳ないね」

と一言詫び、

隣の人には「違うみたい、仲良しなだけだと思うよ」

なんて事を伝えたように思う。

と、まぁ、そんな事があったのだ。

詮索すると嫌われるのも分かる

分からなくもない。

よくよく考えてみたら、

街中を歩く男女が全員恋人かと言われれば、勿論そんな事は無いというようなものなのだろう。

それを付き合っても無いのに

裏音声:「付き合う対象でもないのに」

「付き合ってるの?」なんて聞かれたとしたら、不愉快になるのも分からなくはない。

また、付き合う気があったとしても

「恥ずかしいから余計な詮索しないで!」

裏音声:「大事な時期なの!(2人にとっての)」

なんて事もあるのだろう。

中には、近況話を自分から

実音声:「ねぇ、聞いて〜」

裏音声:「聞いて!黙って聞いて!相槌だけして反論せずに聞いて!」

とガツガツと話してくる人もいる。

また、噂話をよく知りもしないのに

実音声:「ねぇ、知ってる〜?」

と噂から繰り広げられる果てなき想像トークに幾度と無く巻き込まれる事もあるものだ。

いやはや、コミュニケーションは難しい。

先人さんたら「口は災いの元」とはよく言ったものだ。

裏音声:「頑なに黙っていても変な人扱いされるんだけどね」

やれやれ、コミュニケーションって難しいのぅ。

コミュニケーションを、

コミニュケーションと間違ってしまう事よりも難しい。

カミュニケーション

時に、壁を作らないように気さくにコミュニケーションを図ろうとしたら虎の尾を踏んだ如く噛みつかれる事は稀以上にある。

これがカミュニケーションというやつか。

裏音声:「そんな言葉は無いし、噛みしか掛かってないから上手くもなければ神がかってないもない

そういえば以前、都市伝説のような迷信で、腕を噛むと落ち着くなんて事を耳にした事があるけれど、細菌(口内細菌を含む)が入ると危険なのでしてはいけないだろうと思ったことがある。

腕は噛むものではなく、振るうものです。(暴力的な意味では無く)

どうぞ、腕を振るって御活躍下さい。

そろそろ馬鹿綴ってないで話を進めると、

人とトラブルを起こすのは、「他人の気持ち考えて行動しないからだ」というような教えがよく挙がっているように思われる。

それは、当然の事のようにも感じます。

実音声:「ですよねぇ」と。

裏音声:「噛み付く側も言われる側の気持ちに配慮せず、主観と自己都合で発言してるように感じるのは気のせいだろうか」

と腹の裏でドス黒さが漂う時もある。

他人の気持ちを考えて行動してないとは一概には言い難い。

むしろ、他人の気持ちを考え過ぎると自身の行き場がなくなる事を背負いきれない故に気を抜いている部分もあるのだとも思う。

常に張り詰めていれるエネルギーがないからこそ、本能的に制限しているところもあるようにも感じるものだ。

そこを軽視して物を言う事もまた「人の気持ちを考えてない」一部である。

という皮肉も無くはない。

裏音声:「理屈屋で皮肉屋、なんとまぁ嫌われそうなキャラクターじゃないか」

だからと言って「人の気持ちに配慮せず身勝手に振舞っていい事にはならない!」

裏音声:「こう言えば、少しはイメージ回復できただろうか」

ただ、他人の前に自身に配慮した方が身のためである。

裏音声:「また理屈に拍車がかかってイメージが下がりそうだ」

一方が気にかけた分、もう一方が配慮してくれるのならば持ちつ持たれつなれど、

一方通行の場合、エネルギーが枯渇しても相手が救ってくれるわけではない。

更に言えば、相手に救う気があったとしても救えるわけじゃない。(力になる事はできたとしてもそこまでである)

つまり、配慮してしまう自身への配慮こそ肝心という事だ。

裏音声:「本当にね、身を粉にして酷使してる人ほど自らを労ってあげてほしい」

他者に配慮するあまり、自身への配慮が疎かになるという事を例えると、

マラソンにて、自分より体力ある人に「一緒に走ろうね?」と言われペースを合わせた挙句、バテやすくなるようなものだ。

勿論、体力に自信がある人がバテた人をフォローする事もあるだろうし、また体力があって自信がある故に自身のタイムや順位を優先して置き去りにする人もいるだろう。

ただ、問題はそこではない。

問題は、相手がどうかという事ではなくて、無理した挙句に自分が走れなくなってしまう事である。

とは言え人間には感情が搭載されているため、

自分が走れなくなった時に寄り添ってもらえたら「有り難い」、その反面「かたじけない」と思う事もあるだろう。

また置いてきぼりにされたなら、一緒に走ろうねとか言っておいて「ないわぁ、あいつ」と思う事もあるかもしれない。

が、先程述べたように、その感情以上に自分が思うように動けなくなった事が何より大変だと感じるものだ。

例に挙げたマラソンであっても限界を迎える程キツい時に、一緒に走ろうねと言った人の事を考え続けれていられるだろうか?

それよりも、もう走れない、キツい、痛い、などの自身の置かれている状況の方が優先的に意識に入るだろう。

切迫すると、優先順位の高いもの以外は削ぎ落とすものである。

例えに例えを重ねると、トイレに行きたくて我慢できない時には、なりふり構ってられないようなものだ。

故に自分の配慮への配慮が重要なのだ。

裏音声:「気を遣いすぎてエネルギーが枯渇していては本末転倒じゃあないか」

そのため、出来ないことには「NO!」を叩きつけて、

「それで嫌われるなら上等だ」くらいの気構えを持てたらいいのに。

裏音声:「実際に叩きつけたら、返って叩きのめされる事もあるだけに、何とも言えない。(絶句)」

それでもできる範囲で労ってあげようよというお話である。

裏書き:「何とも言えなくても文字は綴れるという屁理屈」

こんな屁理屈を並べると、

またも「そんな事を言う人は嫌い」みたいな事を言われそうだ。

まるで、デジャヴではないか。

裏音声:「屁理屈でなくとも理屈ばかりでも引かれるとは思うんだ」

ー纏ー

人間関係は与えた上に更に与える「ギブ&ギブ」の方が円満だというのには賛成するものの、それはギブできるだけのモノを持ち合わせている事が前提である。

与えて枯渇する場合に成り立つわけじゃない事は、井戸水を組み上げられ続けた井の中の蛙でも分かる事だ。

という事を散々、上で述べてきました。

それを腹黒さと取るか、正直というピュアさと取るかでは大差だけれど、

馬鹿正直に本音を言えば、少なくとも「嫌なやつ」になれるのが人間社会なのでしょうね。

裏音声:「望んでもないのに」

という事にも少々触れてきました。

それでも自身に無理がある事には、ギブ&アップを宣言する事も時に必要ですというお話である。

特に日本は本音と建前を使い分けるコミュニケーションが小難しい国だとも言われていたりします。

それだけ他人を不快にさせる事を思う人種故に建前使わないと人間関係が円滑に行かないと邪推してみると、

些か以上のショックを受けるものの、

本音:「案外そうかもしれない」

と腑に落ちる部分もある。

軽く纏めてみると、傷つきやすく嫉妬深くある事を建前によって緩和しているのかしら?

と一説を抱くものの、

上記全てを総括すると、
他人を詮索する事に首を突っ込んだ結果、虎の尾を踏んだ挙句に腹黒さ(ピュアな本音)が渦巻く偽善者がいましたよというお話です。