人の不幸は蜜の味、人の不幸は粗の味


人の不幸は何の味?その味は蜜だろうか、粗だろうか、そのどちらでもありそうだという事をつらつらと綴る。

スポンサーリンク

人の不幸は蜜の味という心理

七つの大罪の「嫉妬」、「傲慢」といった感情が働いているからであろうか

嫉妬という他を羨み、妬む気持ち

傲慢ともとれる他を見下し悦に入る気持ち

それらが悪いというわけではなく、人間というものに備わっている本能だとしたら「自然」と表現する方がシックリくるようにも感じなくはない。

例えば、自身が嫉妬を覚える相手が失敗をすると、嫉妬という悪感情から解放される。

その解放感が気持ちいいのだろう。

今まで抑圧してきた嫉妬心が解き放たれるというのは、スッキリする気分を与えてくれるのだろう。

また人を見下すという傲慢さも、自分より下と思える人を作る事で安心を得ているのだろう。

そうやってバランスを保とうとしているのである。

人の不幸は粗の味

「粗」は、良いところを除いた残りカスというような意味合いがあるが、ここでは蜜への対義語として当てはめた形である。

特に他人に対して感受性の強い人、自身と重ねてしまいやすい人は、

「他人の不幸なんて辛いだけだよ」

という意見も多いのではなかろうか。

(少なくとも人の不幸を素直に喜べない私はこちらに一票である、また他人が幸せで心に余裕がある方が嫌がらせもしにくくなるものだとも思う)

過去に自身が似たような苦しみを背負った人などもそういう感情が働きやすいとも思う。

他者に対して投影や同一視をしてしまうが故に蜜どころが害のように感じてしまうものだ。

これも悪いものではない。

少なくとも痛みを知るからこそ他人にも優しくできるというような「思いやり」は人間関係において大いに必要な能力である。

ただ1つ、自分の事のように親身になりすぎてストレスが溜まりやすくなってしまう事には警戒したいものである。

例えば捨て猫を見捨てる事ができず、持ち帰り続けて猫屋敷となり、生活が圧迫し自身の事もままならなくなってしまうようなものである。そして自身がダウンした後の猫達は途方に暮れる事となる。

いわゆる共倒れである。

何かの役に立ちたい・救いたいという情は素晴らしいものであるが、無情にも人には限度もあれば限界もある。

その事は頭の片隅に置いておきたいものである。

完璧にはこなせない、両方は選べないといった事態は往々にして訪れるものだけに片の隅くらいには置いておきたいものだ。

結局のところ

蜜も粗も在っていいものである。

というより在るものである。

既に在るものに良い悪いという理由をつけてしまっているだけでのように思う。

他人の不幸で安心を得る事もあれば、他人の不幸で心が痛む事もある。

個々の感受性の差異によって賛否両論なのだろうが、感受性というのもまた性格器質の他、気分、立場、都合などによっても変わるものだ。

また感じ方も個々に差異がある。

一概に良し悪しを測れるものではないのだろう。

少なくとも他人の失敗によってホッとした事があり、また他人の不幸によって気に病んだ事もある者としては、他人の不幸は混ぜ過ぎたミックスジュースである。

味を当てて!と言われても
これだ!と断定できない曖昧な微味である。

それらを味わってみても結局のところスッキリともサッパリとも行かず、「悩み事をしている時点で旨くはないな」と苦味走ったようなシワが眉間に寄っているというのだから笑い話もならない苦笑い話である。