大人だから
お姉ちゃんだから
お兄ちゃんだから
男だから
「泣くんじゃない!」と言われた経験がある人はそれなりにいるのではなかろうか。
泣く事自体に意味がある
勝手な解釈なのだけれど
泣くなというのは泣いた人の周りが、対応に困るから泣かないでくれるかな?
という周りの都合を押し付けているだけではないのかという疑問が生じた私である。
本気で心配してなだめている人がいる一方で
面倒だから泣くな!と言えば言葉は悪いかもしれないが、心理的にそういうものが孕んでいる場合も少なくはない気がしてならない。
または、泣かしたのが自分でない場合でも誤解されるのを懸念しているのかもしれない。
もちろん、それらが悪いということでは無い。
対応の困る事が起きて手間だなと思わない人は少ないと思うし、自身に置き換えても泣いている人がいると戸惑い対応に困るという心情はあるものだ。
ただ泣いている人に向かって泣いても変わらないから泣くな
と言うのは、的を抜いているとは言い難い。
そもそも泣く事が不要ならば、泣いてはいない。
確かに泣いても失敗は変わらない、後悔も変わらない。
それでも泣く事でストレスや抱えているものを鳴き声や涙で流し出している事は
泣いている人の心情を和らげてくれているものだろう
大怪我をして泣きもしない、痛いとも言わないでいるとかなり抑圧を感じるものだろう。
比較にはならないがトイレに行きたい時に無言でモゾモゾもせず我慢しろというのですら辛いだろう。
生理的な反応を薄めてしまう事はそれ自体がストレスであるように思う。
だから泣ける時に泣いていい
と言うのが心思う事である。
そして泣いている人が周りにいるなら、それを何がなんでもどうにかしなきゃいけないと思わないように意識的に思う事も必要なのだろう。
一概には言い切れないが、泣いている場合に
”誰か私を泣き止ませてくれ”と思いながら泣いている人は少ないようには思う。
泣いて、そのうち泣き止む時がくる。
無理に抑圧させる事はかえって問題を大きくする事もあるだけに、手に負えないと思うのならば少し離れておくのもいいかもしれない(対象が物心ついている場合)
冷たいと思われても
「◯◯さんには必要な時間だと思うから」
で良いのではないのだろうか。(キザ過ぎて引かれたら笑うしかない)
また、その場を離れるのは忍びないと感じるなら黙って隣にいるだけで良いのではないだろうか。
泣いている方もいつまでも泣けるほどの身体機能はないし、気持ち的にも巻き込んで申し訳ないから泣き止まないとと思っている人も多い事だろう。
もし声かけをするのなら
「大丈夫?」
と言うよりは
「大丈夫なわけないよね」
と言う方が泣いている側からしたら肯定しやすく強がらずに済む事もあるので、そちらの方が良いかもしれない。
大丈夫ではないから、大丈夫になろうとするための生理的な現象。
泣いている人を不憫だと感じやすいものかもしれないが
その捉え方を変えれば大丈夫になろうとして泣いている行為は、不憫よりもむしろ立派であると感じることすらある。
泣く側も泣く人の周りも
それらが悪い反応ではないし、泣き止ます事に義務感を背負いすぎなくてもいいものなのかもしれません。
なだめる側も神経使いすぎて疲れ果ててしまう事もあるだけに。
なだめなくても一人で泣き止む事が出来る人だと信じてみるような事も大事かもしれません。
無神経や無関心は酷いと言われやすい事だけれど、それらも必要なものです。
常に神経張り巡らせている人ほど余裕が無くなりやすい傾向が強く
泣く人はなだめなければいけないという
泣き止ませなければいけないという固定概念によって疲れちゃう人も少なくはないように感じます。
だからこそ、どうぞ好きなだけ泣いてください。
というのは、双方にとって前向きなことなのでしょうね。