考え過ぎによるストレス*考え過ぎてしまう人


考え事が止まらず頭の中で「グールグル」と回りに回ってしまうというような事は、それなりに多いものではないでしょうか。

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考え過ぎの原因

それは、一説には不安そのもの。

「不安を取り除くには、どうしたらいいだろうか?」と自身の見聞きするものへの不安要素への解決策を巡らせる。

その不安は恐怖といっていいのかもしれない。

もし不利益を被ってしまったらどうしよう?

または既に被ってしまった不利益に対し、どうしたらいいのだろう?

と思考を巡らせる。

さらには自分の事でない事でも
もし、自分だったら?と
自身に投影してしまう事もまた
不安や恐怖の疑似体験を自身に課している。

と言えるのだろう。

それが悪いわけじゃないとは思う。

『他者は自身を写す鏡である』

というように投影による共感によって学べる事も多いだろうし、時に癒されることもあるだろう。

ただ不安を増長させてしまうというリスクをも孕んでいる事は自覚しておいた方がいいのかも知れない。

例えば、ホラーを見てしまった故に過剰に不安が増長してしまってトイレに行けない、一人が怖い。

などがそうだろうか。一時的な恐怖で済むことが大半だとは思うけれど、中には引きずってしまう事もなくはないのである。

故に不安が悪いわけではなく、その不安を増長させてしまう事が考え過ぎに繋がりやすいのだろう。

考え過ぎを減らすには!?

簡潔に言えば、どうしようもならない事は、どうしようともしないのが望ましい。

ただ、それは誰しも気付いている事だとは思います。

どうしようもない事だけれどどうにかしたいから考えたくなくても過ぎってしまう事が苦しいのだ。

ただ

自分なりに深く考えたからと言って
それが上手くいく保障はないのだ。

むしろ考え過ぎによって不安が増長しすぎてしまう事の方が多いと思う。

それは単純に有効策より不安要素の方が圧倒的に見つけやすい故の事なのかもしれない。

つまり考え過ぎてしまう人は、考え続ける間は不安への対応に追われているという事になる。

深く考えていく度に不安材料を増やし続けていくようなものだ。

それは解決の目処が立たない事に対し、不安は増大していくという事であり、増長した別の不安の処理にも追われる事でもある。

言ってみれば、体力を減らしながら、終わりのないマラソンを走り続けているという事

機械で言えばバッテリーを消耗しながら、終わりのない演算をずっとしているという事

それをし続けると何らかの支障が出るのだろう。

不安を解決したくて取り組んだはいいが
良くなるためにしているはずのことが
悪化の元凶と成り果てる。

例えば、ダイエットや筋トレによって体を引き締めようと始める

なかなか成果がでない事に不満や不安を感じる

成果を出そうと自身に合わない減量や無理な運動の負荷を与える

怪我を負う

怪我の度合いによっては取り返しのつかない事にさらなる不安が生まれる

取り返しのつかない事を悔んでも解決策もなく不安は増大する

これは雑な悪循環の一例でしかないが、最後はどこへ向かうのだろう。

やはり「受容」という道が最も前向きな道につながるのだろうか?

それを早い段階でできる人は傷が浅くて済んだという事になる。

これは結果論に過ぎないため、解決にはあまり意味を成すものではないが不安を早めに流し考え過ぎを見直すという点では必要なようにも思うのだ。

例に戻って言うならば
目先の成果で無理なメニューを取り入れるのではなく、すぐに成果はでないよね、継続するうちできる事も増えるという判断を下せるならば身体を酷使しない選択もできる。

不安をその時点で流す事ができるのなら、それが一番である。

すぐに成果はでない事へ悩んでも仕方がないという受容。

何事にも時間はかかるよねという受容。

その受容すら、すぐには慣れないとは思います。

もどさしさだってあります。

ただ、人は積み重ねる事で慣れる事ができます。

不安を積み重ねる事で苦しくなれたように

他のものもを積み重ねる事もできる。

その積み重ねの足しになるものの一つとしてルーティンが挙げられます。

考え過ぎないためのルーティン

ルーティン:一連の動作

という意味になりますが、ここからは考え過ぎないための一連の動作を自分なりに作ってみようというお話です。

そう!考えないスイッチ!

私は最近、作りました。

軽く深呼吸しながら目を瞑り、体の力を抜き、両手を開いて仰向けに

という自分なりのルーティン。

手を開いて仰向けにしている間は
考えないスイッチが発動している状態(という自分ルール)

スイッチ発動してるイメージを持っていても

実際、頭は多少働いてしまいます。

無心には遠いです。

それでも気負う必要はありません。

思考がよぎる分には仕方がないです。(じっとしていると内から思考が溢れてくるのが正常です、正常であるうちは何の問題もありません)

問題になるのは嫌な思考を増長させてしまう事にある。それを下げるためのルーティンである。

よくぶつかってきた巨大な理想論の一つですが、不安を完全に消し去るという無理難題!

それを成そうとすること自体が既に自身を追い込んでいたなと思う事も増えてきました。

やはり考え事や悩み事の余韻というものは残ります。

人間ですから完璧にはそれらを切り離せません。

それが正常です^^悪い事ではありません。

考え過ぎる人にとっての考え過ぎによる疲弊を軽くしていく事が目的ですから

無くすという無理難題に取り組むことは必要ないのです。

 

2度目ですが考えて良いことを思いつくより
考えて不安要素を思いつく方が圧倒的に多いです。

その圧倒的に多い不安を増大させてしまうと手に負えなくなっていくのは必然なのでしょう。

まずは増長させない事が先決です。

また比較的解決の目処が立つ事には考えるより行動が役立つこともあります。

案ずるより産むが易し

やる前はあれこれ考えてしまうが、やってみると案外うまくできた。

というな意味で使われることわざです。

一回遅刻したからとか、プライベートでちょっと喧嘩したとか。

謝罪で済みそうな事などは、むしろ悩む前に行動してみた方がいいのかもしれません。

例えば、喧嘩

喧嘩の後、相手がどう出るかわからないものに対して行動せずに不安だけ募らせても解決はしません。

謝罪が遅い事でかえって歪みが拡がる事の方がトラブルや不安を増大させてしまいかねません。

考え過ぎな人の中には、すぐ謝ると反省してないと思われるかもしれないという事まで考えてしまうかもしれませんが

すぐ謝るって反省してないと思われる事と

謝らずにいる事で自分は悪くない相手の責任だと思っていると解釈されてしまう事と

どちらが取り返しがつきにくくなるだろうか。

反省はしてなくても、怒らせた事にはすぐ謝罪すればいい。

それからどこが悪かったか反省を始めてもいいと思います。

反省する時間をかけたからと、反省したと解釈されるわけじゃないのだ。

すぐ謝り、反省してからも謝ればいいじゃないか。

互いに頭が冷えてから情報交換をすればいいじゃないか。

その頭を冷ますきっかけとしての謝罪でいいではないか。

人間関係は一筋縄ではないので一概には言えないけれど、行動してみる事で不安に支配される事を減らせる事もあるのだとは思います。

不安が巡りに巡ってしまうと行動すら困難になりがちです。

お化け屋敷が苦手な人が恐怖で足がすくむようなものでしょうか?

そういう意味でも意地を張って引くに引けなくなる前に早めに謝った方が良さそうではあります。

答えが無い事だけに臨機応変にとしか言いようがないのですけれど、考え過ぎて好転するイメージを個人的には持てたことがありません。

むしろ考え過ぎは最善には程遠い!

皮肉を込めて考え過ぎは最善どころか最悪である。

とさえ言い切ってしまいたいくらいです。

なので

今日の考え事は今日の自分に任せ
明日の考え事は明日の自分に任せます。
昨日の考え事は昨日の自分が処理してくれた。

ちょっと無責任かもしれませんが

そうやって小分けに区切る事で不安要素を小さくカットしていくようなイメージを持っていたいものです。

例えるならば
携帯の一括購入には、躊躇は大きくても
分割ならば、なんとかなるかな?

と言うような感じでしょうか。

不安の分割処理とでも言いましょうか。

考え過ぎて潰れてしまうよりは、無責任かのように思える考えない事の方がよっぽど健全という事もあり得ます。
言ってみれば適当が適度なのでしょうね。