ストレスを減らすには他人の土俵に上がらない!?


つい感情的になって泥沼になってしまうという事はないだろうか。
そんな時は他者との距離を近づけ過ぎなのかもしれないという事を綴り綴り…

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ストレスを下げるには同じ土俵に上がらない

自分の尺度でものを図るとストレスは多くなりがち。そんな自身にストレスが溜まりがち。

それは自分1人の価値観と違ったものが何億以上もあるから当然と言えば当然の影響かもしれないのだけれど。

例えば、自分が出来ることを他人が出来ない場合
「なんでこんな事もできないの?」とよく聞きそうな台詞が挙げられる。

では発した側の人は他人が出来る事を全てできるだろうかと言われれば、そうでもないのだろう。

到底及びそうにないものを例に挙げると、

プロと呼ばれる人たち相手にはプロだから、格が違うから、小さい頃からやっているからと理由をつけて正当化しているケースは多い。

つまり畑違いである事を認める事で比較しにくいようにしているという事ではなかろうか。

これを虫がいいな!と言うつもりはなく、あぁ、そうかと納得である。

先程はプロを相手に例えたけれど素人相手でも土俵違いや畑違いと解釈する事でストレス値は下げられる事も多そうだというところに着眼すると少し気が楽になれる感覚を得る事が出来た。

ただ理屈で解決するほど感情はコントロールしきれるものではない。

それそ、少しでも緩和できるように身になるのに何ヶ月、何年かかるのやらわかったものではないけれど生涯ストレスフルな事を引き合いに出すのなら減らせるに越した事はないと個人的には感じてしまうものだ。

そもそもストレスフルに生涯耐えうるだけのタフさを兼ね備えているのなら、こんな事を語ったりはしないだろうし考えもしないのだから…

そもそも自分視点(自己価値観への固執)で他人を見てしまう癖
つまり同一視や投影のようなものかもしれない。
他人は自分を写す鏡だという言葉があるように
結局他人を見ながら自身の価値観を他人に当てはめようとしているのかもしれない。

つまり自分の事しか見えてない。
他人を他人と見れていないと言っていいのかもしれない。

それ故に自分ならこうするのに、こうできるのに、自分だったら嫌だな等という他人へ自分を重ねている行為は当然ながら差異を生む。

その差異がストレスを感じさせていくケースも多い事だろう。

自分は他人とは違うという場合であっても、尺度は自分の価値観で測っている場合は多いものだ。

それを意識して自分を振り返るとグサリと刺さるものがあるほどに^^;

ただ先にも述べたように理屈がどうあれ、その時の感情は理屈でやりくりできるものではない。

勝手に反射的に動くものが感情。言い換えるなら無意識的な反応。

それを止める、または軽減するには意識的な反応を行う他にない。

例えば大人が子どもを子どもだと思っているなら
子どもちょっとしたイタズラくらいは流せるかもしれない。

子どもだから親の気を引きたい行動を取りやすい、子どもの役割の一つであり子どもなりの仕事である。と理解できるなら頭ごなしに怒り心頭にならずに済む事も増えるかもしれない。

子どもが子どもとしての仕事をした。
それで怒る必要があるのかは、イタズラの度合いにもよりけりだとは思うけれど。

怒る前に理解を意図的に挟み込む癖はあった方がいいのかもしれない。

ただ理解を示すのと、我慢をするのは似て否になるものとだけは言っておきたい。

理解できるから我慢してあげようというのは、我慢できるうちは良いが積もり積もって耐えきれなくなっては自身も相手も不健康極まりない。

理解を示した上で怒る事も必要である。

ただそれを意図的にコントロールしきれないのが歯がゆいところであり、肝心なところのように思う。

ただ経験不足で下手なだけなのか、それとも登る山を間違えていてそもそも出来ない事なのかわからないが、そもそもわからないものを探すことに答えをすぐ求めても答え出ないもの。その時々方向転換して右往左往してもいいじゃないの。と思いたいものだ。

そもそも人間は完璧じゃないし、人間だって電気信号で動いているので情報量やこなす事ができない事が積もると処理できなくなるものだ。

だからこそ理解をしようとする事は大事、別の土俵がある事を知っておくのは大事。

知った上で上がらない、上がるを選択できるのが理想。あくまで理想であって固執する必要のないこと。

時に上がる方がリラックスできることもある、同じ土俵にいる人を見て安心する事もある。
同じ悩みを抱える人同士が意気投合したり等が良い例だろうか。

他人には他人の視点があり都合がある。
自分には自分の視点があり都合がある。
というありふれた理。

受け流せる都合もあれば、受け流せない都合もある。

言葉で言うのは容易いが要は折り合い、バランスである。

それを本当に難しく思う。
少なくとも0か100かのような偏りある価値観だと痛感させられる。

こだわり過ぎず中途半端であれる事の習慣を身につけていきたいものだとも思う事が多い。

薄々自覚があるストレスを増長しやすい原因の一つとして、すでに固定化されてしまっている概念による不調和が挙げられる。お気楽な半端者概念こそ意識に必要なのでは?と…(わかっていても身には付いていないもので(;´д`)トホホである)

弘法は筆を選ばずというけれど、半端者の自身が筆を選びすぎて筆に振り回されてる感が否めないのだ。
むしろ半端者なので筆を選ばなくていいのかもしれない。

詰まる所、初心者用の中古筆でいいのです!形から入るより感覚的に頭ぶつけながら入る方が合っているんだろな。

ただ形から入りたがるという矛盾。

その矛盾は実に人間らしいのだけれど、ほんと自分の事ほど分かりきってないもんだともどかしくもどかしい。

同時にそれが面白いような、情けないような、恥ずかしいところではある。

筆を初めから選り好みするより徐々に自身に合わせて変えていく方が楽しいのかもしれない。

初めからできたものを持っていても自身との差異にモヤモヤを増していそうだものな(私の場合)

RPGで言うと装備も進行度よって変化していく。
この場合の装備は自己概念?だろうか。

その時々、移りいく答えなきもの。その過程として
土俵に上がらない事が挙がりました。

と言う事ですかね。

未だ正解なんてわかりゃしない。正解を求めてないのかもしれない、たまに物思いにふける事がもどかしくも楽しいのかもしれない。

最後に下手な例え方をすると、狩人でいうところの射程範囲に入らなければ獲物のになることもない。

もちろん範囲に獲物がいなければ狩人もただ人であり狩人たり得ない。土俵に自分がいなければ(もしくは相手がいなければ)ぶつかりにくいという事である。

むしろ、届く距離だからこそ狙うし狙われる。

それを避ける方法は届きにくい位置へ移動する事というお話でした。