構ってちゃんと構わないでちゃん
自己発信ツールが普及し、お手軽に自己主張できる時代。
その反面、それに纏わるトラブルもそれなりに多くなってきているような、ないような。
構ってちゃん心理
構わないでちゃん心理
は、恐らく比例も反比例もしない。
構ってちゃんでも、自分の容量を超えた構われ方をすれば億劫になるだろうし、嫌気もさすだろう。
例えば、恋人がなかなか返信くれない。
SNSなどで他の人には返すのに、なんでこっちには返してくれないの?
というような有りがちな事を挙げると、
もし、返さない人が分単位で送ってきたり、返信まで催促するようになったら、どうだろうか。
嬉しいだろうか…
煩わしいだろうか…
概ね、煩わしいかろう。
(とは言っても、放置してる割に他とは絡む事を快く思えないという根本的な問題は別にあることの方が悩みの種になりがちだろうか)
また、構わないでちゃんにしても、
常に孤独でいたいかと言うとそうでもないだろう。
誰かに話を聞いて欲しいこともあれば
一方的に自慢したいこともあるだろう
心細く感じることもあるだろう
結局、『人が望むのは都合のいい範囲での構って構わないで』である。
その範囲を越えた物、つまり自身にとって不都合と感じるものには煩わしさを感じてしまう。
そういう都合の良い生き物なのかもしれない。
それを相手に悪いからと八方美人などをする事もあれど、それはそれなりにストレスを溜め込んだ上での行為なのだとも思う。
自分の都合良さにバランスが取れているものほど心地よく感じ、アンバランスなものほど煩わしい。
ただ、構って構ってと拍車がかかる人ほど、
放っておいて放っておいてと拍車がかかるほど、
それらによって満たされる事から遠ざかっているような、いないような。
構われることが当たり前になれば、それに喜びを感じれなくなっていくかもしれない。
(それが当たり前だから、むしろ構わない者へのストレスすら増長するかもしれない)
また、一人でいたくて構われないことが当たり前になれば、それに安心する事も減っていくかもしれない。
(一人で居過ぎる事で、かえって不安が増長し適応力は下がっていくのかもしれない)
あればあるほど、満たされるものもあるだろうけれど。
あればあるほど、それを当たり前と誤認し始める事の方が多いように感じなくもない。
自分が届かない前にいる人より、手の届く隣にいる人の方が視界的にも見えない位置にいるような。
お気に入りのスィーツでも、それを高頻度で食べていたら重たくなってくるような。
望めば望むだけ、満たされるよりも遠ざけているような。
適度に間隔が取れているほど、都合良く感じるものかもしれない。
やり過ぎて依存、やり過ぎ麻痺
そんな事が往往にして起こるだけに、程よさというもの保つ事の方が余程難しいのだろうけれど。
当初の希望が、自己を満たしてくれるとは限らない。
(好手に思えた一手も物事が展開するうち悪手となる事も往々なんだなというお話)