ここでいうナルシストは、ナルシストを相手にして疲れてしまうという意味合いではなく、自己愛の深さによって振り回される自分自身を指します。
という事をこの冒頭で述べておきたい。
ナルシタイヤード(narci tired)
ナルシストという自己愛の高さ、自己陶酔の行き過ぎというものは犠牲にしているものも多い。
例え自己愛が高くとも、自尊心も高く支障を感じないのであれば大した問題ではないのかもしれないが、無理しているなと感じる場合はよろしくはない。
とはいえ自己愛は少なからず誰しもが持っているものだ。
悪いものではない。(時に危ういものである)
また対称的とも思える自己嫌悪もまた思うようにいかない故に抱くものであろう。
では、反対なのは何だろう?自己無視だろうか、自身を振り返る事もない自暴自棄にも似た他者愛。(他者愛も行き過ぎれば危ういものである)
自己愛を感じた瞬間
・コンプレックスに対する隠蔽工作
自身を良く見せるための見栄等といった一種の防衛本能である。(が、防衛も行き過ぎれば過剰防衛となる危うさを孕む)
・自己を卑下することにより他者からの情や肯定を求める
自信を持てない故に自己による肯定が出来ず、他者からの肯定を得ようとする。(が、自信の無さと外から補おうと繰り返す度に強化され拍車がかかっていく事に対し自信は養われないままであるという悪循環に陥りやすくなる)
・自己陶酔に浸る
自惚れて入れる時は気持ちいいものであるが、覚めた時、あるいは冷めた時の落差というものを顕著に感じるものだ。また自身が誰よりも優れているというような誇大感に憑かれやすく他者を軽視したり逸脱しやすくなる。
などなど
とリスクと共に挙げてみるとグッサリと胸に刺さる。
そのような行動をとったことなどを振り返ってみて自身の自尊心(ありのままの自分を肯定する能力)が低さを痛感したものだ。
それが良い悪いの問題というわけではない。自己愛の形成は発達段階にあるもので少なからず誰しもが通り得る道である。
ただ自己愛と自尊心では大きく異なるものを感じるのだ。
それが「自己肯定」である。(言ってみれば芯みたいなものだろうか)
他者に良く思われるために取り繕って背伸びしてしまう自己愛。
他者に良く思われなくとも自身で納得いくことならば受け入れることができる自尊心。
いわゆる「仮面」である。
自己愛故に理想の自分であろうと「仮面」被る。
その理想像と現実との格差に葛藤する。
ただ理想が悪いわけでも仮面が悪いわけでもない。それが重荷に感じないのであれば正常の範囲なのだろう。
それでも漬物石のような重荷を自己愛を守るために乗せていれば自己愛に浸かり、溺れるのも必然であろう。
そして重荷を外したからとして形状記憶合金のように一気に戻らないのだろう。
とは言え、マシにはなる。(そこが肝心だ)
また自己愛が深いほど敵か味方かや黒か白にこだわる傾向があるのでなかろうか。
自身がそうだったということもあるし、解消されきってはいないのだけれど昔ほど良し悪しにこだわらなくなった。
単にこだわるのが面倒くさいという事もある。それに加えて良し悪しの視点も結局のところ立ち位置次第である。
とあるスポーツ観戦でも応援するチームの違いによって対立が生まれるものだ。
それを自身の意見を通そうと躍起になったところで火の粉が舞いに舞って飛散しては広がる惨事となる。
悲惨である。
物事の良し悪しが問題なのではなく振り回されてしまう芯の浅さが問題なのだろう。
だから養えてない人が悪いんだよという事は、もちろん無い。
何故なら、そういう悪者見つけをしても自尊心は養われないからだ。
むしろ悪者探しをすることで、「悪者見つけたんだから養わなくていいだろ」という理由にしかねない危うささえある。
養いたいのに養わない理由を増長させては本末転倒である。
では自尊心や自己肯定力はどのように強化していけるのか!?
最も理想なのは、自分が自らの意思で行った事に対し自他ともに褒められる、認められる事だろうか。
とは言っても理想は理想であり、出る杭は打たれる(嫉妬などにより育つ前にへし折られる事も多い)
植物を育てたことがある人なら共感できることかもしれないが、一度で思うような綺麗な花や実が育つことは稀だ。
自尊心の芽というものもそういうものなんだろう。
外敵から守るには囲いは必要だ、けれど育ってきたらその守るための囲いによって窮屈となる。
園芸では窮屈となったら間引いたり、囲いを外したり広げたリするものだ。
そして咲けなかった芽や蕾といった失敗の数よりも咲いた花や実という成功を数えている方が多いだろう。
失敗を見直すことは必要なのだろうが、数えるなら成功した事でいいもんだ。(失敗の方が圧倒的に多い物に対して数で判断するというのは、負け戦のようなものである。)
日々における成功体験。自分なりに達成できそうなことを目標とし、達成できたら褒める。出来なかったら見直しでみる。
ぼやきにも似た理想論を言えば教育環境がそうである事がベストとまではいわないがベターなのだろうが環境が整っていないのであれば自身で取り組む他ないのも事実である。
物事が0か100では測りきれないほど多様なように、生き物の成長もまた一定ではない。(早熟があれば晩成もある)
よって周りと比べる必要もないものだ。自身にとって必要だと感じたら養おうとすればいいものだ。
そういう感じがしたら何かしらの転機なのだろう。感じなかったことを感じるという事は、良くも悪くも感じれる段階に突入したという事である。(それが前進なのか後退なのかは定かではないが)
そう思いたいだけかもしれないが、前向きに感じれるなら悪くはないどころか、良いもんだ。
憑かれて疲れた
「自己愛に浸かれるのは一見気持ちいいようで憑かれ始めると拍車がかかり疲れるものだ」
この言葉は一種の自己陶酔ともいえる。
そしてこのダジャレのような言葉を読み返した時に「あぁ、やっちまってる」と失笑を禁じ得ないのだろう。
ただ、その時は良いと思った事は、その時では良かった。未来からしたら情けなくともいい経験だ。
(過去の恋愛において、その当時はあった愛情。好意の風化した今では何故付き合ったんだろうとすら思うがその当時といい経験だ!みたいなものだ)
たとえセンスないなという野次を想定して傷つくことはあっても、「センスなかったんだもの、事実だもの」くらいでいいもんだ。
(たとえ失恋して傷つくことはあっても、異性を見る目なかったのは事実だもの!くらいでいいもんだ)
そもそも上手い文章書けるようになるためには、何億字も下手な文章綴る事になるもんだ。
(失恋しても付き合い方がそこまで上達したように思わないが、確かに失恋後の心の整理は若干上手くなっているのかもしれない)
閑話の方に熱が入ってしまいそうなので元の鞘に納めると「無意識だとしても無理してると疲れちゃうよ」、「その原因は自尊心の低さからなんだろうな」という事である。
他人の評価を気にする右往左往に終わりがないんだもの…疲弊して当然である。
皮肉を込めて「背伸びして足が痺れてうずくまる」と自分可愛さに見栄を張るほど反動が大きいことの比喩をいつしかした事もあっただろうか。
案外、取り繕って得るものよりも犠牲にしている事の方が多い。
またこの話題で最後に思う事。
それは「プライドが高い」という事を世間では誤って「自己愛が高い」ことを指しているのではなかろうか。(プライド=自尊心と認知している人とプライドという言葉に対しての受け取り方が大きく差があるようにも思わなくもない)
ただ、矛盾があってもそれなりに回っていけるという事は「矛盾と向き合う上での肝」とすら感じるところでもある。