書かなきゃ覚えられないは思い込み?の暗記は復習もとい再会

書かなきゃ覚えれない?書くから書いてしか覚えれないと思い込んでしまう

よく暗記などをする時に書き覚えばかりだった。

何故書き覚えなのかというと、

勉学を書いて覚えたことしかないからである。

(書いてしか覚えてないと思い込んでいたからと言えばいいだろうか)

幼い時から何かと筆記が多く、ドリルやら、ノートに取るやらの影響のおかげ様か書いて覚えるのが当たり前になる。

結果、書いてないと不安になる。

というような悪循環だったような。

ただ、書くという動作も加わることが定着度に影響があるとも思う。あくまで私的には書いてるいるほうが定着度はやや高い。

ただ、それなりに時間がかかる。

全部書いて復習してたらキリがない。

そんな事を思うと、見直してみたくもなるものだ。

復習が最大の記憶維持方法なのだろう事を思うと、

書くかどうかより、復習するかどうかだ。

書いてその日の定着度が良くても復習してないと忘れていく。

書いた労力が泡と化す。

そこで、別に書かなくても定着している事を思い返してみる。

例えばCMとか、ドラマやアニメのオープニングやエンディングなど、覚える気がなくても口ずさんだり頭の中で流れたりする事はしばしばある。

(意識的に覚える気満々で反復している方が定着しやすいのだろうけれど、

あまり意識的にしてなくても、ちゃんと目にしたり聴いていてそれなりに認知していると
反復しているうちに定着し始める事もある)

そう思うと、全て書いて覚えるという優先度は低くていい。

やはり、復習の回数や濃度の方が優先度は高い。

という判断へと至る。

ここで、一つの葛藤を思い出す。

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進行度と復習の葛藤

先に進めば進むほど、復習の量が膨大に積み重なる。

一日1ページ本を読んだとして、毎日復習するとなると一週間後には7ページ復習。

バカ真面目に総復習をし続けると進めた分だけ積もり積もる。

だから手に負えず復習しなくなったり、嫌気が指したりと、この葛藤の泥沼に溺れた身としては痛感至極。

(容量の良い人ならば、毎日同じ復習をしないようにバランス良く間隔をあけつつ、分からないところを復習し、分かるところは飛ばしながら復習の量を減らす。

という事が器用に出来たりもするのだろうけれど)

あれもこれもやっておかないと不安だなぁ。

もしかしたらこっちも重要なんじゃと、

身の丈を超えてあっちこっち気にしている不器用だと行き詰まった事しかない。

上手くこなそうとするから葛藤は強くなり、それをこなせない自分がダメだとか、自分がこなせないものを突きつけられているようで不満だとかいう負の感情に苛まれたりしやすくなってしまう。

これは良くない。学習にも体にも。

そもそも学習なんて、出来ない事をしていくのだから

出来なくて当たり前

出来るものを増やしていく過程

あれもこれもは出来ない。

何かわかる、何かができるようになった、と増えただけでも喜ぶ事だし寿ぐ事だ。

そう思ってみると、全部きっかりかっちりやろうとして手に負えなくなるより、こぼしながらでも拾えるものがあるだけ良いもんだというスタンスが健全なのかもしれない。

続けれれば、拾える量も増えてくるし、蓄えられるものも自然に増えてくるのだから、

初めは半端でいいというか、半端が当然だと気負わない方が持続する。

上手くなっていく過程を楽しむには、下手や半端も悪くない。

出来た時、気持ちいいし。

変化を顕著に感じれるし。

そういう感覚を身で覚えておきやすいのは、下手な特権だものね。

と良いようにとればいい。

悪くとっても伸びないなら悪く取る必要はない。

 

また、書いて覚えるというのも
書かないで覚えるという成功体験をしてないために書いて覚える癖が離れないのなら、

書かないで覚える成功体験をしてみれば、少しは書く事のこだわりを崩しやすい。

という事でもある。

少なくとも全て書く必要は無くなり、どうしても覚えきれないところだけ書いて覚えるというように量を減らしてポイントを絞る事ができる。

(ただ、記述が必要なものや漢字や英語のスペルを覚えるのは書き慣れている方が手が覚えている分間違えが少ないようにも感じるので

結局、自分に必要なところを使い分けるしかないのだけれど)

物覚えと対人関係

認知という角度から見ると似たようなものだよね、と勝手に思っているのだけれど…

覚えたものも暫く使わなければ忘れるように

対人関係も暫く会わなければ、誰だっけ?

という事も当然ある。

また、しっかり復習して定着し続けている暗記物と久々に遭遇しても特に苦労を感じないように、

久々に会った友達を頻繁に会わなくてもその人だとしっかり認識している。

と思うと面白くも感じるところ。

確かに、初対面の暗記物に、
これはどういう意味?
どう使うの?

という疑問を抱くように

初対面の人に
どなた?
どこから来たの?

という質問を抱いたりするものだ。

暗記物には復習という対面をし、
人には、再会という対面をし、

よりそのモノの事を把握していくうちに距離が縮まり、意図的に認識してなくても反射的に認識できている状態へと変化していく。

言ってみれば、

初対面の人と再会しても、あの人だったよね!確か!

が、

何度も会っていると迷う余地もなく、

あの人だ!

と分かっている。

なるほど…暗記物を復習というより、また会いたい!遭遇したい!

と思えるならロマンチックかもしれない。

(流石にそこまで熱くなれないんだけれど、そうなれるのならお得かもしれない)

暗記が好きな人や得意な人が対象に興味がある対象だから熱中しているうちに覚えていくというのは、そういう事に近いかもしれないな。

何て事を思ってみたわけです。

オシマイ。

(書かなきゃ覚えられないわけではない、対面する人を書いて覚えた事がないものね。

理論派もいれば、感覚派もいるし、文字が得意な人もいれば、映像が得意な人もいるし、また、音が得意な人もいる。

故に一概にコレというものもない。

あるとすれば、遠く離れてしまう前に復習もとい『再会する事』なんだろうね)

表現が気持ち悪いけれど、復習というお堅いイメージよりは再会の方がフレンドリーちっくで何か良い。