カタカナ英語が在るだけ良かったかもしれない

カタカナ英語があって良かった?

理想だけを言うならば、カタカナ英語ではなく発音も表記も本来の英語のまま浸透している方が大変便利な事だとは思う。

国内くらいしか通じないカタカナ語なのだから、もう日本語でいいだろう。

と思わなくもない。

また、和製英語については日本向けの造語なら日本語でいいのに紛らわしいものを広めたものだと感じる事も無くはない。

(キラキラネーム付けてるような感覚なのだろうか)

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とは言え、既に在るものを在るだけなのでアレコレ言っても仕方がありません。

ただ、カタカナ英語であっても在るだけ良いものかもしれないなんて事を思う事もしばしば。

全く何もなく英単語に親しむよりは、
カタカナ英語でもあるだけ英単語には親しみやすい。

発音の癖を矯正していかないとはいけないとは言え、全く馴染みがないよりは

「どこかでお会いした事ありましたね」

と親しみやすいものだ。

(どんな人かを全く知らないよりも

どこかで見た事がある人の方が幾ばくかの心構えができるようなものだろうか)

カタカナ英語を英語にできたならかなりの数の単語数になるのだろうから、

そりゃ、あるだけ幸いなものと捉えている方が前向きだろう。

そう言えば、昔よりも人物の名所も多少変わっているのだとか、

ナイチンゲールさんが、ナイティンゲールさんになったのだとか。

そんな話を小耳にしました。

もうそれなら、本名をそのまま発音記号とともに書けばいいのでは…

Nightingale?

チンかティンかというカタカナ発音をこだわった所で、ティンというよりはンン?ヌン?のように聞こえなくもない。

(eatenがイーヌン?イーウン?のような)

ティンにするならゲールもゲイルの方が近いかもしれない何て事を思いながら、

ルーズベルトさんもロースベルトさんになっていたりするのだとか、

確かに、ルーではないかもしれない。

Roosevelt

ローズというよりはローザ?

いやはや、色々変わっていくんですね。

今まで辞書などにナイチンゲール、ルーズベルトと記載されているものを変更すると、
世代間差によって多少の混乱を招かないために、

ナイティンゲール(旧称ナイチンゲールの事)みたいになるのだろうか。

ただ少しなりと発音が近づくのならば、それはそれで遠いよりはよっぽどいいとカタカナ英語を英語として再インプットしたい身としては朗報と言えば朗報だろうか。