幸せ感じたもん勝ち


幸せというものは自身の問題によるところも大きいものなのだろうなと今更ながらに感じます。その自身の問題とは…。

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幸せ感じたもん勝ちなのだ

…その自身の問題とは、
価値基準だっ!

私は自身の事しかわからない。というより自身の事すら把握できていないし、コントロールもし切れていない。いろんなものを失ってきただけに人生何があるかわからない。一寸先は闇だとはよく言ったものだ。とさえ思う。

ただ考えようによれば失えるものを既に持っていたのだなという事は、生まれてから何も得ていなかったわけではないという事なんだなとは感じるものだ。

得たものを失うからこそ辛いんだ!という意見も多いとは思うのだけれど。

では、元々無ければ辛くないのかというと一概にはそうは言えないものである。

無いままでいたことのない人の想像の範疇である。

それもまた、有る人、有った人、無い人による価値観の相違なのかもしれない。

と、余談を無理やりテーマに関連づけたところで「価値基準」をどうすればいいの?というか、どうできるの?というのが問題だろうか。

以前にも「基準を下げる」という話を別の形で述べたようにも思うが、似たようなものだろうか。

その前にそもそも幸せを感じにくい人ってどういう人?

  • 物事を当たり前だと認識している人
  • 多くを望み、多くを期待する人
  • 他人を認めず、感謝できない人
  • 一人で何事も背負う人  などなど

〈物事を当たり前だと認識している人〉
家族・友人・配偶者や恋人は居て当たり前だろうか?自身の健康や周りの健康は在って当たり前だろうか?資産は?会社は?学校は?法律は?気候は?地球は?在って当たり前だろうか?当たり前になっていきやすいことでもあるし、そんなに警戒してもできることは限られているし、神経質になりすぎるとかえってストレスなのだけれど、当たり前に慣れすぎているとなかなかその当たり前を幸せだと感じにくくなるものだ。当たり前になってしまう事が結して悪いことではないのだけれど、ふとした瞬間にでも一時でも当たり前じゃあないなと刺激してみることは自身や周りを豊かにするかもしれない。

〈多くを望み、多くを期待する人〉
自身の願望や欲望といったものを満たしたり期待を超えてくる事象は少ない故にハードルを上げれば上げるほど物事がつまらなくなり不満が増えていきやすくなる。

〈他人を認めず、感謝できない人〉
他人に対して意地を張ってしまう傾向にある人は、かえって自身を抑圧しているように感じる。例え認めているからといって認め返されるとは限らないのだけれど、撒いた種が全て目が出るわけじゃない、そういう意味でも「期待しすぎない項目」は要かもしれない。

期待しちゃうんだもの

という思考は私にはある。例え期待をしてしまっても、それが当たり前に報われるものではないという「当たり前ではない項目」もやはり要なのだろう。

〈一人で何事も背負う人〉
何があっても自己責任というような意見もあるかもしれないが、大抵自己責任で賄えることは無いと思う。少なからず誰かしら何かしら巻き込みながら生活している人が大多数だろう。

だから迷惑かけていいというわけにはならないのだけれど、自分が倒れたらそれ以上の重荷を背負う事にもなりかねないという事は頭の片隅にでも置いておいた方が良い。

いっぱいいっぱいで余裕もなくなってしまう前に吐き出せるものは吐き出して良いのだと思う。自身の能力以上に良い子・良い人であり続けることより、ストレス下げる事も優先して欲しいとは思う。

このような理屈だけでは物事を改善はできないが整理には役立てたい。

つまらなくしてしまっている価値基準に慣れてしまって、素直に喜べないことが多かった事を減らすためにも嬉しく感じたことを表現することが必要なのだろうなと感じます。

幸せ感じたもん勝ち、それがどんなに些細でも