言論の自由と言論の暴力と失言

ある日の事、憲法を改正に至っていない段階においての戦争発言もさる事ながら、憲法尊重擁護の義務を課せられているはずの国会議員が法を逸脱するかのような話を持ち出すという奇天烈な出来事に首を傾げた。

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(切り取られた一文ではなく、全文らしきものが事実なのだとしたら、たとえ意思確認の問いだとしても言動を選ばな過ぎなのではなかろうか、周りが困惑しているにも関わらず煽り過ぎではなかろうか。数ヶ月前にも論点や主張は兎も角として一般人相手の小言に自ら執拗に絡み不毛な争いを何日も繰り広げていたのも記憶に古くはないようですが…今度は自らの手に負えない墓穴を掘る事に至る日が来てしまったという事でしょうか。及びもつきそうにない学や行動力がありながら残念なものですね。)

 

憲法改正関連のパフォーマンス発言かとも邪推してみるものの要領を得そうにない不可思議であった。

また、宿舎から出ようとして抑止されたという報道も事実なのだとすれば言論どころか行動的にも一線を越えようとしたと判断されかねないようなので今後どうなっていくのか気がかりではあります。

 

行動については根拠共にハッキリしていないようなので発言に焦点を当てると致しまして、

そもそも戦争によってエスカレートする事は有りこそすれ、解決する根拠はどこにあるのだろう。

ルールが守られる保証があるとは言い切れない事は、フィクションでも無いのに憲法を度外視したような発言によって島民を煽る者が現れるように既に確実性を持たないとさえ感じるのは気のせいだろうか。

 

勝ち負け以前に、少子高齢化も自国の資源も貿易も景気も戦争をした時点で詰みそうだという懸念は隅に置くにせよ、国際化社会の中では国際法も決して軽視できないのではないだろうか。(世界を敵に回して成り立てるのだろうか。)

 

それに、どこの国の民も時に武力の必要性を感じる事はあるかもしれないが心から戦争を望む人がどれほどいるだろうか。

戦争?それは和解の放棄そのものであって解決の放棄と呼べるのではないだろうか。あるいは、遺された未来人への問題の転換なのではないだろうか。(過去の戦が現代に爪痕残しているように。)

歴史を振り返って武力の行使という弾圧できる力が及ぶ範囲の有限的支配を’奪還や侵略”とは呼べても”解決”と呼べるのかは怪しい。

 

と、ありふれたような感想を抱く。真意や真相を知る由も無いのだから感想程度の事しか語るわけにもいかず、勿論、これらの懸念や感想が正しさにもあらず。あくまで個人的な価値観である。

 

不可思議な現象に首を傾げながら、個人的な解釈を足りない頭でグルグルと、

 

謝罪と撤回を示したとは言え、本人の手を離れた噂は肥大化した挙句どのような影響を及ぼすのだろうか。

 

願わくば、他国で暮らす日本人や留学している学生さんや赴任している方にも影響が及ばない事を。

 

そんな事を思う。(自国民に留まらず他国民が個々どのような受け取り方をするかなんて既に本人の始末に終える問題でも無いなのだから、言いたい事を言いたいが為に島民や他国に滞在している人を危険に晒して只々掻き乱しているようにしか見えないけれど…)

 

言論の自由と言論の暴力になってはいないだろうか…。(言いたいことを言えなくなる事が言論の自由の危うさのように、法に触れなければ何でも吐き捨てていいというような思想を増長してしまう見本になり兼ねない事もまた危うさのようにも感じなくないけれど…なんだかな。)

(視点や価値観は違えど、議員になれる者が様々な懸念を抱かないとも思えない。他に意図があったと思う方が可能性は高かろう。ともすれば、同じ視点に立てる者ならば理解を示せるのかもしれませんね。そんな風にも思うけれど、そのような視点を待ち合わせていないだけに感じる不可思議さなのでしょう。

ふと、力というものを過信してしまう何かしらがあったのだろうかなんて事が過ったけれど、結果だけ見れば酔いしれたのは酒にだったのだろうか。なんだかな…。

そしてこれは後出しできる立場故の事なのでフェアでは無い事ではありますが、憲法無視のような発言を放った者が憲法である言論の自由を盾に取る事もまた著しい矛盾のようにも感じてしまうものですね。あくまで感想に過ぎませんが、締めているのは自らの首のようにも感じなくはありません。

…言論の自由とやらを矛にした者が、今度は盾に持ち変えたようとしたところで理解を示す人がどれほどいるのだろうと更に首を傾げてしまいます。

論点が違うために、それはそれ、これはこれなのでしょうけれど傍から見てしまうと筋が通っていると受け取りにくいでしょうか。

更に、事態の収束どころか失言とは異なるところで一悶着・二悶着ありそうな発言を仄めかしている事も他者の不祥事を世に問ても道連れにこそなれ、棚上げ感によって更に失墜するものがあるのではないだろうかという危惧をしてしまいます。それは、その矛先が関与していないであろう第三者に刺さる事へ懸念でもあります。

単に、矛先が関与者以外に向いてしまう風潮は好きになれないという我儘故の懸念という自己都合に過ぎないのですが。

道無き道を行こうとする自由の暴走感漂う出来事への懸念…ブレーキは何処へ…。

…なんだかなぁ。

言論も人間も感情も当たり前ながらに難しい。そんな有り触れた事にしみじみするばかりである。

自身の発言すら視点の異なる人から見れば勘に触るそれであろう事には自覚的であった方が言葉を選ぶ余地は多いだろうか。これまた考え過ぎると選択できる道が減るのも確かだけれど、だからと言って向こう見ずでいいとも言い難いですしね。

…なんだろなぁ…。

理解が追いつかず、頭の整理もできないのは自身の問題にせよ。不可思議に感じるのならば不可思議のままがいい事なのかもしれませんね。

知った気や分かった気になる事は、それ以上を知る事の放棄と同義なのだろうから奢ってしまわないためにも思慮の浅い事を戒めにできるに越した事は無いですかね。

やはり、陶酔しないでいれるに越したことも無いでしょうか。酒にも知にも己にも力にも…。

酔えるほどの能力もないため縁の遠い話ではありそうだけれども、それを遠いと決めつけてしまうも謙遜でなく単なる傲慢でしかないのでしょうから能力の有無は関係無さそうですね。

他人を通しての自身への戒めしての言論の自由は時に暴力との紙一重。それがいいのかもしれません。少なくとも自身にとっての。

報道や余波に感情を巻き込まれて苛立ちを得る必要もないだろうか。

第三者から見てしまうと本人の保身と党の保身に国民が煽られているようにしか見えないだけに第三者への被害ばかり懸念してしまう。それも一種の保身と呼べるかもしれないので保身が悪いと言いたいわけではないですよ。言えば、自らの首を締めるものね。保身はするさ!なので、それらの保身らしき言動が悪いというわけでもない。ただ、それに国民が煽られてあげる義理はあるのかな?という疑問があるだけである。

応援するも批判するも個々の思想の自由なのだけれど、本来上がらなくても良かったであろうはずの土俵に国民の感情を都合の良くなるように引きずり上げようと繰り広げられる悪者決定戦のようなものは誰得なのだろうか。そんな風に思う。

それもまた視点の違いなのかな。

これ以上、失言を引き金に二次被害が拡がらない事を願いたいものです。

そんな第三者視点で戯言を述べる程に感情を煽られてしまっただけの価値はあったのか無かったのか、上がった者全員が感情の不利益のようなものだと仮定ならば無かったと取る方が健全なのかな。

実際に行動している方にとっては、言論や感想だけで容易く無神経に語られてしまうことすら不愉快な事だと思うと、なんだかなぁ。理想論や持論もまた相容れない他者にとっては不都合かつ不快になる事柄なのでしょうね。言うは易く行うは難しですものね。)