女は減点方式、男は加点方式?それとも自分方式

男は加点方式、女は減点方式

とは昔から言われたりする事、

(その逆も言われたりしていますが…)

あくまで自身の憶測の範疇中で妄想してみると、

男は数を求め、女は質を求めるという台詞もまた昔から言われる事。

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それらを重ねると、数を求めるには良いところを見て悪いところを相殺する能力が必要であり、

一方、質を高めるには悪いところを切り捨て良質なところを残す目利きが必要となる。

それらを本能的に衝動的に感じ取った上での反応が、”男は加点方式、女は減点方式”と言われれば、筋はある程度通っているような気もするものだ。

とは言え、人は自身にとって特別なイベントがあれば大きく評価が変わる事もあるのだから傾向が丸々個人に当てはまるわけでもないことは言わずもがな…

また減点されていなくとも、興味が他に移り、他への評価が上がれば相対的に自身への評価は低くなり素っ気ない反応が現れる事もあるのだろう。

無論、男性であっても時に人によって物事によって減点するものだ。

否、男は減点方式、女は加点方式?

初めがピークで徐々に釣った魚には餌をやらない状態…男性にありがちな展開。

異性を落としにかかっている時がピークである事は少なからずありそうだ。

後は落ちていきやすいので見栄も張らなくなってくる。

“急に冷たくなった”とよく聞くセリフだけれども、見栄を張って演じていた化けの皮が続かなくなった、あるいは続けなくなった結果なのではなかろうか。

化けの皮を剥いだら”素顔が見える”

つまりは豹変したのではなくで自分に戻っただけである。

ある意味、”男のスッピン状態”と言えるのではないだろうか。

女性は化粧で色香を増すというように、男性も化けて魅力を上げているのかもしれない。

自ら上げたハードルに自ら躓き、擦り剥けてしまった際には幻滅が待っていたなんて事はザラにあるかもしれない。

化けて上げる魅力が悪いわけではないけれど、化けずとも素が魅力的なスッピン美男とやらを紳士と呼びたくなるものだ。

一方、女性が加点していくイメージがあまり湧かない。

“理想”と”現実”との格差から、つまり”理想”からの減点方式によって理想の基準を下回ると圏外にGo!

そんな気がするのは気のせいだろうか。

本人からの減点なら極論何もしなければ上がりもしないし下がりもしない。

実際、何もしないと下がるのだから下げるための基準があるというのが必然。それが”理想”

そこから引かれていると思うとしっくりくるものがある。

勿論、人によりけりではあるものの。

あくまでその傾向が高めなような気はするものだ。

対象者が理想から基準が下回った場合、

男性の場合は後々「元気?」などと異性に連絡する事が割とあるような、女性の場合は音信不通で拒絶”沈黙という回答”を起こす人が多いような気もしなくもない。

男性は思い出を残しやすく、女性は徹底的に捨てる事が多いともいう。

また男性は別れた女性を褒めやすいが、女性は嫌悪感を漂わせるともいう。

部分部分な視点で加点しているから褒めれる男性
総体の視点で減点しているから褒めれない女性

と思うとしっくりくるものがあるのだけれど、あくまで気のせいであり根拠は持ち合わせてはいない。

所詮は人による。

女性であっても後日、最近どう?と連絡してくる人いる。

男性であっても別れた後、元パートナーを貶し続ける人もいる。

やはり傾向云々よりも、自分がどうか、自分の身近な人がどうかが問題なだけだ。

問題にしようが変わりようがないので不問にしている方が健全なものだろうか。

他人に加点されようと減点されようと自身は自身で評価できる方が病みにくかろうとは良く言ったもので、他人の影響でブレるほど人は何故か病みやすい。

自分の体の重心から外れて重荷を持つとギックリ腰になりやすいように、自身の心から他者に左右されて振り回されるとギックリ心になりやすいのだろうか。

ギックリゴコロというと”図星”みたいなイメージが付きそうだけれど、他者の影響でメンタルが多少なり右往左往してしまうのだろ??

と言われれば文字通りの”図星”である。

影響される事が悪い事でもないが、影響された事でストレスが増すのであれば心身にとっては悪い事である。

そういう意味では、加点減点という傾向に振り回されるのは上述通り心身にあまりよろしくないのかもしれない。

思い込んで得れるものは偏見くらいのものだものな…。

女はこう、男はこう(あるべきだ論)

なんてお爺さんは芝刈り、お婆さんは洗濯にいくくらいの偏見だ。

(お爺さんだって川に行く日だってある)

お兄ちゃんお姉ちゃんだから泣いちゃダメくらいの圧力だ。

(おっさんだっておばさんだって泣きそうな日も泣く日もある)

やはり、加点方式だの減点方式など右往左往しているよりは、常に流動的な自分方式でありたいと思うくらいでいいのかもしれない。

そんな戯れた事を思ってしまう日であった。