人を信じる力を活かしてみよう


そこまで深く人を信じてはいない、信じたいけれどできないという人は案外でもなく、それなりに多いのではないだろうか。

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人を信じる、信じない

信じても尚、掌を返されなればいいのに!と思う人もそれなりに多いのではなかろうか。

けれど現実は、そう御都合主義にはいかないものだ。

それでも、人を信じる方が快適であると言いたい。(他人は自分を映す鏡とも言われる程だ、自身を信じる事を養う上でも肝なのだろう…と)

そもそも何故信じないのか?

先天的・生まれつき誰も信じないという人は稀なので、後天的に身に付くことが多いと思われる。

原因は経験則による掌を返される事への恐怖心からの保身である事が多いだろうか?

「裏切られて傷つく事への恐怖」

それは大なり小なり裏切った経験あるいは裏切られた経験がある故に警戒してしまう事であるが、その警戒心は何ら悪いものではない事を認識しておきたいところである。

その警戒心がある事で回避できるトラブルも多いのだから、むしろ学べているなら寿いでも良い事だ。

ただ行き過ぎれば毒になり身を襲うという、それだけの事実である

人を信用しないという選択のリスク

過剰にトラウマとなってしまった結果、誰も信じれなくなるといった状況になる事はそう珍しくはない。

誤解を生みそうな言葉のフォローを入れておくと、珍しくないから大丈夫だよなんてことは言えない。(他者から観れば小さい事であっても、当事者からすれば十分なトラウマとなる事もある。もちろん他者が引くようなトラウマを抱える人もいるものだ。)

では何故高リスクなのか?

”自分の能力は限られているから”である。

流石に無尽蔵のエネルギーや万能な人間と言うものを想像できない。

いくら能力が高くても限界や限度はあるものだ。

家庭や仕事や学校などと言った嫌でも他者と関わらないといけない環境では、

他人を信じれる方が、労力は減りやすいものだ。

そう言うのも自分でこなした方が早いからと相手の分まで自分が背負いこんでしまうと次第に積もるストレスに蝕まれやすくなっていく故である。

また、自分がこなすということは相手に楽をさせている事と大差ない。

ライバルや嫌いな人が育たないのは、有難いと思うこともあるのだろうが、余りに負担が手に負えなくなってくると彼らが楽をしているのに自分は頑張っているという理不尽さに気が病みやすくもなるものだ。

これは小言でもあるが、引き受けなくていいものには「NO」と言える癖をつけておいた方が身のためである事は、幼い頃に学んでいたかった事である。

やはり共同空間にいる場合において自身の負担が積もるというのは、好ましくはない

(1人でできる内は問題ないが、きついならば弱音を吐いて手を引く事も必要である。それを格好悪い事ではない、当たり前の事である)

それでも周りは笑い者にするかもしれないが、恥をかいて得るものは多い。

そういう事を若い頃に学べていたら、いいのにという無い物ねだりが巡ったりもするものだ(今知れてるなら良かろうという無難な言い聞かせで納得しているような、していないような)

何にせよ、自分が他人の事を背負いすぎるのは何事でも宜しくはない。

事例を挙げるなら、「親が子ども部屋の掃除をしていると、子どもはいつまでも掃除の癖がつかない」である。

親は、いつも散らかして片付けない事を気にする故に嫌々片付けてストレスを感じる。

が、子どもは親が片付けてくれるので自分ではしないいう癖が強化されていく。

一方、親は気になる度に肩代わりし続けるためストレスを強化していく事となる。

そう思うと「あなたの能力ならできるんだから、片付けてみなさい」などの

やる気を削ぎにくい言葉で褒めつつ託してみるのも一興なのかもしれない。(否定や支配から入ると反抗心を煽られたり、やる気が削がれやすいため効果は薄そうである)

それでも効果が見られないのであれば絶対捨てるという猶予のない警告にて反応を見る事もやむ終えなかろう。

欲を言えば、管理できる能力があるから与えたんだよ^^という事を子どもが認識してくれれば苦労しないのだけど理想通りには中々行くまい。

親も人間である。時に厳しくなろうものだ。

それはそれで子どもにしては自立への一歩とも言えるのだろうから悪くはないのだろう。

しかしながら親子関係を追求したいわけではないのだ(逃)

ここで述べておきたいのは、他者を信じる事で、自身が背負ってしまっているストレスを軽くする事もできる場合もあるという事である。

次に根本的な事言えば、人を信用しなくても都合の悪い事をされれば傷ついたり不快を伴う事は避けられない”という事だ。

言ってみれば、いつか裏切るだろうと警戒し続けて心労を重ねた上で、裏切られた場合には更に傷を上塗る事となる。

これだけでも二重苦である。

また、裏切られた事を「やっぱりね、最初からそう思ってたんだ」とさながらサスペンスを観て予測した犯人が当たっていた時のようなセリフを言おうものなら、納得できもしない事を無理やり納得しようとやせ我慢しているようなものだ。

つまり三重苦である。(警戒で神経を使い、都合の悪い事をされて傷つき、納得できない事をも背負い込む)

そして次は以前よりもエスカレートし、繰り返すうちに強化されていくという悪循環へと陥るのが典型ではなかろうか。(倍々ゲームの様に膨れあがっていく不信感)

また、信じていても自身の不利になる環境に貶められることも多い。

それは、例え疑っていても甘い誘いに乗って痛い目に合う場合もある故だ。

これを言い換えれば「例え信じていても甘い誘いは断る事も出来る」ということだ。(警戒心を持ちながら信じれる範囲で信じていいものである)

それを意識している人が多いとは思われる。それをいざ声に出し拒否できるかどうかである。

他人は他人の都合で動くものである

それ故に
信じたからと言って期待道理に動いてくれるわけでもない。(否定や疑うよりは褒めたリ信じる方が相手のやる気を削ぎにくい)
信じないからと言って相手の利害もなく妨害してくることも稀である。(妨害のリスクが低い時でも警戒心Maxで神経を張り詰めても辛いだけである)

そして過度に身構えても対応できることは限られている。(これも自身の能力の限度の1つである)

例えば天気予報で雨が降ると言われて傘を5本持って行っても邪魔である。(むしろ落として踏んでしまったり、盗まれるリスクは上がるのだ)

つまり対応できること以上の過度な警戒は無駄なのだ。(少なくとも理屈の上では)

と言え、感情が反射的に危機感を感じる事に対しては理屈の有無は勿論無意味である。

そのため止めようとして止まるものではない。故に後付けの理屈によって引っぺがすのだ。

自身を振り返り、それでストレスが減っているのか、むしろ増えているのか?

そして自身の思い込んでいる事は、自身にとって負担かどうか。

そして感じた事は信じるか信じないかより、信じない事で得ているストレスである。

そもそも、あれもこれも信じないというエネルギーは膨大だったという事である。(そのエネルギーで他の事をこなせるほどに)

人を信じる事は自分を信じる事でもある?

結論を言えば信じる信じないは個人の自由である。ただし信じない事で得やすい三重苦のような悪循環は、(多少なりと警戒心を持ちながら)人を信じる事でも減らせるという事である。(親しき中にも礼儀ありと言うように信用の中にも用心ありでいいものだ。限度を超える事ならば、こちらが掌を返すこともやむを得ない。そのくらいの卑怯さを認めても良いものだとも思う)

また他者を信じるという事は、信じた自分を信じるという事だ。(他人を疑い過ぎるという事は、自分の都合で他者を縛りたい欲求でもある。そして掌返されても対応できる自分を信じていないという事でもある。すなわち「依存」である。他者を信じたいが自分を信じれない他者依存、他者を受け付けない自己依存、どちらに偏っても喜ばしくは無い。)

つまり、自分を信じる力をも養えると言ってもいい筈である。(他人に丸投げにする事と、信じる事は異なるのだけれど)

それに最も重視したいのは、背負わなくてもいいストレスを手放そうという1点だ。(過度なストレスの省エネ化を目論みたい)

その一点を重視したい理由というのは、実際問題、理屈通りに感情や行動を器用にこなせたら誰も悩まない!という元も子もない話が前提にある。

故に最も優先度の高いであろうところに焦点を当て取っ掛かりになればいいのである。

(人を信じる事と楽というよりは”人を信じない事が辛さを募る”という警鐘の一説である)