復習というものが嫌い、復習という出会い
復習が嫌いな理由をざっと挙げてみると、
①同じことの繰り返しが億劫
毎食同じメニューの食事が辛く飽き飽きするようなものに近いのだろうか…
②復習は予習をすればするほど溜まる
少しテーブルが散らかってるくらいならばすぐ掃除できるが、部屋全体が汚くなってしまうと掃除するのも億劫になるような心境に近いだろうか…
③やった事を忘れているという事実に凹む
何かに挑んで失敗という現実を叩きつけられる事を恐れている気持ちに近いだろうか…
などなど。
と、不満タラタラして復習をしない事で毎度のように訪れる忘却。
一夜漬けのように詰め込んだもの、意気込んだはいいが続けれなかったものは忘却の彼方へ。
まるで、筋トレやダイエットの如く見事なまでの記憶のリバウンドである。
そして、リバウンドした事への挫折感が更なる億劫さへと繋がる悪循環。
それなりに頑張ってみたのに、リバウンドしてしまった事への喪失感。
これらを根本的に言い換えてしまうと、リバウンドするようなやり方でしか手につけてないという事なのかもしれない。
言わば、
①億劫になる復習法しかしていない
②復習を掘り下げ時間をかけすぎて予習できなくしている
③そもそも記憶を過大あるいは過小評価し過ぎている
とりあえず、初対面の人に置き換えてみて、その人を知るには初対面で深く知る事は困難だ。記憶に残るのも名前やルックスや声の印象くらいだろう。
それを学び事に戻すと、例えば単語の名前と字面と発音の印象くらいである。
掘り下げられていくのは何度も会っているうちだ。
そう思うと、焦ってせっかちに詰め込もうとしているのがズレているのかもしれない。
日にちはかかるものだ、知っている情報を振り返る時は以前より早くを意識がける。
後は理屈で重くしてしまうより、淡々と再会する事だ。
知りたい人には頻繁に会いたくなるような事があるように、何かしらとの出会いである。
言ってみれば、復習の放棄は、出会いや再会の放棄。
頭では知りたいはずの事が、行動では知りたくないと放棄してしまっているという矛盾。
知りたいなら会いにいけばいい。
それだけの事なのかもしれない。
人と違い、教科書も参考書も逃げもしないし掌を返しもしない。
その分、人より断然扱いやすいもの。
そういう認識でもいいのかもしれない。
というような戯言が過ぎるであった…